Ep.215
子どもの頃、私が初めて知ったアマチュアレスリングの選手はアレクサンダー・カレリン(ソ連→ロシア)だった。
男子グレコローマン130kg級でオリンピック3連覇(88、92、96年)、世界選手権9連覇。
言わずと知れた「人類最強の男」である。
ただしロシア出身のこの選手を私はアマレスの試合を観て知った訳ではなかった。
「リングス」の試合だった。
リングスとは90年前半、プロレスラー、前田日明(あきら)により設立された伝説の総合格闘技団体。後の日本におけるPRIDEやUFCブームの下地となった。
そのリングスで、前田の引退試合が組まれたのだ。今調べたら1999年2月のことだった。
そしてその相手がなんとカレリンだった。
当時中学一年生だった私は格闘技のことなどまったく知らなかった。(「PRIDE」で総合格闘技ブームが来る夜明け前のことである)
それなのになぜリングスだの前田日明だのアレクサンダー・カレリンだの知ったかと言うと、それはWOWOWによるものだった。
この民間衛星放送局は我が家に遅くとも1995年には入っていて、毎月のプログラム(放送予定が載っている)が紙媒体で送られてきていた。
そして当該月のWOWOWのプログラムの表紙と特集が、カレリンvs前田だったというわけだ。
当時の格闘技ファンは度肝を抜かれたに違いない。
「人類最強」とはいえ、興行やファイトマネーとは無縁の(まさに”アマチュア”)レスリングの選手であるカレリンをブッキングできたのだから。
ある意味モハメド・アリvsアントニオ猪木の実現よりも驚きの対戦カードだったかもしれない。
肝心の試合自体は観たかどうかも覚えていないが、カレリンが2Round終了後の判定で勝利したようだ。
その後カレリンは2000年シドニーにて「五輪4連覇」を目指した。
誰もがそれを成し遂げて伝説になるだろうと思っていた、決勝戦。しかしアメリカ人選手、ルーロン・ガードナー(Rulon Gardner)の乾坤一擲のパフォーマンスに屈することとなる。
私は当時家で読んだ新聞(一般紙)のスポーツ蘭の記事も、日本人選手に関するものではないのに大きな扱いだったことも覚えている。
13年間無敗だった男を倒し、オリンピック史に残る大波乱を起こした、と伝えていた。
もう一つ余談だが、東京五輪2020で男子グレコローマン130kg級の決勝戦をたまたま観ていた。
キューバのミハイン・ロペス選手の4連覇がかかっているのだという。
果たしてその試合はロペス選手が勝利し、見事に「五輪4連覇」を果たした。
にもかかわらず日本ではまったくニュースにならなかった。
“あの、カレリンでも果たせなかった”大偉業を成し遂げたというのに。
それはとても残念なことだが、つくづく、スポーツの世界ではかつてのスーパースターを超える選手が現れるものなんだな、と思ったものだった。
だって「人類最強」「霊長類最強」と散々言われてきた男を超えたのだから。
(なお女子では、説明するまでもなく伊調馨が五輪4連覇を達成している)
なおロペスは2024年パリ五輪でも金メダルを獲得! 前人未到の「五輪5連覇」を果たした。
五輪の歴史上、4連覇はカール・ルイス(陸上)やマイケル・フェルプス(競泳)、伊調馨など6人が成し遂げているが、5連覇は初の快挙だった。
女子レスリングに目を向けると、2004年、新たな時代の扉が開いた。
この年にアテネで開催された五輪で実施競技となったのだ。
日本からは
48kg級;伊調千春
55kg級;吉田沙保里
63kg級;伊調馨
72kg級;浜口京子
という4選手が出場した。
大会前より「女子レスリングではメダルラッシュが期待されます」などど言われていたが、フタを開けてみると前述の4選手は
銀・金・金・銅
を獲得し、女子レスリング界に明るくない一般ピープルを震撼させたのだった。
さらに報道によると、世界選手権の世界女王であっても非五輪実施階級により出場できなかったり、世界的な有力選手であっても国内選考会で敗れたり、と世界で最も熾烈な代表争いだったとのことだった。
アテネ五輪に出場できなかった中に、山本美憂、山本聖子(ダルビッシュ有の妻)の姉妹(山本KID徳郁の姉妹)もいた。
というようなことを書くと、このブログの筆者は随分レスリングに詳しいように思われるかもしれないがそんなことはない。
それほど、当時のセンセーショナルなできごとだったのだ。
説明不要の“霊長類最強女子”は津市出身(久居高校→至学館大学)。
五輪3連覇、世界選手権13連覇。16年リオデジャネイロ五輪の準決勝まで206連勝。
競技での無双っぷりだけでなく、明るく天真爛漫で、絶大な“陽”のエネルギーを放つその姿は、マンガの中から飛び出してきたような人物のようだった。
東京五輪2020の招致活動も現役アスリート代表として最前線に立った。
世界のレスリング界と、“日本の女子アスリート界のアイコン”として君臨し続けたことは、吉田沙保里にしかできなかったことであり、同選手を空前絶後の存在たらしめた。
五輪4連覇を狙った16年リオ五輪決勝。
吉田選手はアメリカのヘレン・マルーリス(Helen Maroulis)選手に敗れた。大波乱だった。
それはまさにカレリンと同じ構図であった。
五輪連覇を目指す第一人者が五輪決勝で敗れる。
あぁ、これほどまでに「引導を渡す」シチュエーションが他にあるだろうか?
伊調馨は「五輪5連覇」を目指したが国内選考会で敗れ東京五輪は不出場。競技は違うが男子柔道60kg級の野村忠宏も五輪4連覇を狙ったものの、やはり国内で敗れ08年北京五輪は不出場だった。
「五輪決勝で敗れる」
それこそ最上級のドラマだ。
人気のドキュメンタリー番組「アナザーストーリーズ」(NHK-BS)で「吉田沙保里が負けた日」の回を観た。(なんて秀逸なタイトルだろう)
この中でマルーリス選手は「サオリは私のアイドルだった」と述べていた。
挑戦者が、研究に研究を重ね、対策に対策を練り、絶対王者に対峙し、そして勝利する。
カレリンを降したガードナーと同様、マルーリス選手にもまた、勝利への必然のプロセスがあった。
土性沙羅(どしょうさら)選手。松阪市出身(至学館高校→至学館大学)。
16年リオ五輪決勝で吉田選手が敗れた一方で、69kg級で三重県に新たな五輪金メダルをもたらしたのが同郷で大学(愛知県の至学館大学)の後輩で名前に同じ“沙”の字を持つ土性選手だった。
リオ五輪後、17年の世界選手権で優勝。
東京五輪2020では惜しくもメダル獲得はならず、現役を引退。
その後故郷、松阪市に戻って市の職員になったから県内で話題になった。
土性選手が求人に応募してきたとき、松阪市では本人だと思わなかったという。
「スポーツ課」に配属されて業務をされているようで、スポーツの普及や市内の学校への講演活動をしている。
(競技は違うが女子ハンドボールチーム「三重バイオレットアイリス」(Ep.92参照)の元日本代表主将、原希美選手も現役引退後、鈴鹿から故郷宮崎・延岡市に戻って当地で市職員になった。オリンピアンによる「地元への恩返し」というのはトレンドになるだろうか?)
旧姓・向田真優選手は四日市市、四日市ジュニアレスリングクラブ出身。JOCエリートアカデミー入校に伴い東京に転校した後、至学館大学。
出身の泊山小学校は南部丘陵公園(Ep.139参照)の隣。ジュニア時代に腕を磨いた四日市ジュニアレスリングクラブの練習拠点は中央緑地公園(Ep.86参照)。
東京五輪2020に53kg級で出場し、決勝戦ではポイント0-4からの逆転で金メダル。
当然、地元四日市は盛り上がり、近鉄駅前の商店街には頭上に「向田選手 金メダルおめでとう」の横断幕が飾られた。
その年(21年)の年末、五輪での活躍を振り返る地方番組に出演した同選手によると、この場所を通るときは恐縮してうつむきながら歩くのだという旨を述べていた。
夫でもあるコーチとの二人三脚も話題になった。
前述の番組で司会のアナウンサーから「家にいるとき誤って夫のことを“コーチ”と呼んでしまわないのか?」
との質問に、大笑いしながら「それはない」と応えていたのが印象的だった。
世界選手権は東京五輪後の22年大会を含め計3度の優勝。
当然、24年のパリにて五輪連覇が期待された志土地選手だがしかし、出場は果たせなかった。
世界のレスリング界における「新星」が立ちはだかったためである。
同郷で6歳年下の藤波朱理選手だった。
2024年パリ五輪。
三重県出身の女子レスリング選手達の系譜を継ぐ新たな”怪物”。
というより、五輪前から既に怪物だった。
藤波朱理(ふじなみあかり)選手である。
出身の下野小学校は三岐鉄道三岐線(Ep.175参照)の山城(やまじょう)駅の近くで、伊坂ダムサイクルパーク(Ep.203参照)の近く。
17年の中学2年生時に全中大会決勝戦で敗れて以降、連戦連勝で出場する大会はすベて優勝。
シニアデビュー後も、国際大会でも、上の階級に出場しようと、引き続き連勝と優勝を記録し、「133連勝」のまま、パリ五輪に臨んだ。
藤波選手の連勝記録が一般のスポーツニュースにも登場してきたとき、私は将棋の藤井聡太棋士のようなものかと思った。
デビュー初期の対戦相手たちは「プロの中でも下層に位置するレベル的に劣る棋士たちでしょ」と思われていた(少なくとも私はそう思っていた)。
しかしその快進撃はずっと続き、気付けば羽生さんのようなトップオブトップも降し、あっという間に無敵の王者になってしまった。
藤波選手も同様に、シニアデビューから世界選手権優勝、パリ五輪まで無敗で駆け上がった。
凄まじい快進撃だ。
パリ五輪代表をかけた23年6月の全日本選手権、女子53kg級準々決勝。両者は初めて激突した。
現役五輪金メダリストと現役世界選手権王者の対戦だった。繰り返すが両者はともに、四日市出身なのである。
試合は藤波選手が勝利した。
頂上決戦ではあったが周囲からは「藤波選手が勝つだろうな」と予想されていて実際にその通りになった。
志土地選手は25歳なので、実力が衰えたとかそのようなことはあり得ない。
東京五輪後も強さに磨きをかける王者を、さらに成長とスピードで上回る19歳の新星が倒したという構図だった。
そしてパリ五輪。
結果については言うまでもなかった。
私は2015年ラグビーW杯のオールブラックス(NZ代表)や2018年の夏の甲子園の大阪桐蔭高校を思い出していた。
要するに「万人が認めるぶっちぎりの優勝候補が下馬評通りに優勝した」というものだった。
スポーツの世界では、それは最も価値があることだと思う。
藤波選手もそれを成し遂げた。
パリ五輪の日本選手団の中で、というより世界的にも、全競技を通じて最も金メダル確実と言われたごく限られた選手たちの中に藤波選手も入っていたはず。
決勝戦では、最も警戒していたというエクアドルのルシアヤミレト・ジェペスグスマン選手に10-0でテクニカルスペリオリティ勝ち(野球でいうコールド勝ち)。
最大のライバルをも一蹴し、公式戦137連勝とした。
2004年アテネ五輪の吉田沙保里に始まり、今回の藤波選手まで。
6大会で実に4人目、かつ6回目の五輪金メダルを三重県にもたらした。
“女子レスリング王国 三重”
その地位はますます揺るぎなく、今後も続いていきそうだ。
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Fujinami Akari A New Rising Star Wrestler from “The Kingdom of women’s Wrestling”, Mie
Ep.215
Mie got so many 5 Olympic Gold medals from Athens2004 to Tokyo2020 in women’s wrestling.
Yoshida Saori, Dosho Sara and Shidochi Mayu are all from Mie.
And in Paris2024, a new rising star wrestler, Fujinami Akari also got Gold one!
Without doubt, Mie is “The Kingdom of women’s Wrestling”.
https://www.tokai-tv.com/tokainews/feature/article_20220715_20195
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/cbc/539735?display=1
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240809/k10014543211000.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E6%9C%B1%E7%90%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%B2%99%E4%BF%9D%E9%87%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%80%A7%E6%B2%99%E7%BE%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E7%9C%9F%E5%84%AA
https://news.yahoo.co.jp/articles/ea87127c4011d8db7799dc292ef015e8b1a7a234
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20240401-OYTNT50152/