みんなの笑顔が三重(みえ)てくる Jima-t’s diary

「地域性」に光をあて、「違い」を学び、リスペクトし、楽しむというスタンスで四日市や三重の魅力を伝えていきます

きんてつ鉄道まつり

Ep.263

きんてつ鉄道まつり

近畿日本鉄道が主催するイベントで、一般人は普段立ち入れない検修車庫を会場に、車両展示や特殊車両の稼働実演、グッズ販売などがおこなわれる。

近鉄名古屋線区間である四日市の塩浜を会場とする同イベントは、近年では毎年春の開催だ(毎年秋には奈良県開催)。(Ep.104など参照)

 

 

このイベントといえば思い出がある。

四日市に越してきたばかりの頃、全日本大学駅伝国道23号線で沿道観戦するために朝、塩浜駅で降りると大勢の子ども連れが。

「三重でも駅伝熱は高いんだな」と感激したらなんてことはない。彼らは塩浜駅隣接の「塩浜検修車庫」に吸い込まれていった。当該日が「きんてつ鉄道まつり2019」の開催日でもあったのだ。(当時は秋開催だった。Ep.12参照)

 

時間が経てば状況も変わる。すっかりこの街に馴染んだ私はこのイベントを訪れるようになったのだった。

 

塩浜駅

 

塩浜地区は「四日市第1コンビナート」内であり、市内で最も古く作られた工業地帯だ。

それゆえに公害・四日市ぜんそくの深刻な被害を経験したエリアでもある(Ep.21119参照)。

塩浜駅は近鉄特急も停車する駅だが駅舎はこじんまりしており人も少ない。

 

けれど同イベント開催時は混雑していて駅にはたくさんの人が。

駅から徒歩で向かう。(昨24年は白塚車庫(津市)も会場だったが今年はここだけのようだ)

 

会場は塩浜駅隣接の車庫

 

お子様向けイベントであることに違いはないがそればかりではない。

というのも最も盛況なのが、鉄道・バス関連の廃品販売なのだった。ここにはマニア(といって差し支えないだろう)の大人たちが行列をなしている。お目当ての、珍しい一品を求めて遠方より来場している人も多いはずだ。

 

近くに車両が集結

 

先ほど“バス”と述べたのは三重交通バスのこと。地元では「三交 さんこう」と呼ばれ、バスやタクシー、ホテルや不動産を経営しているグループだ。同イベントでは三交バスも来ていた。

 

三重交通グループホールディングスHPより

 

観光列車しまかぜが、先ほど四日市駅を出発しました。まもなく塩浜駅を通過いたします

会場にアナウンスがかかる。

すると来場者は線路ぼ方にさーっと移動し始める。

そして「しまかぜ」が通過するや車両に向かってみんなスマホを向けたり手を振っているのだ。

 

「しまかぜ」の通過を待ち侘びる来場者たち

「しまかぜ」がやって来た 左の青い車両がそれ

 

「そんなにみんなしまかぜを見たいのか?」と思うのだが、わざわざアナウンスされると注目するのは人のさがなのかもしれない。

とともに「ひのとり」よりも「しまかぜ」の方が人気があるのだろうか? という疑問もわいた。

気になって調べてみると「しまかぜ」はなんと1便/日しかなかった!?(近鉄名古屋-賢島)

もちろん賢島へ行く特急(ビスタカー)は何本もある。けれど「しまかぜ」となると1便/日なのだ。”観光列車”としての希少性とブランドを打ち出しているようだ。

「ひのとり」は毎時間あるので、まったくコンセプトが異なるのだった。

 

観光列車「しまかぜ」

近畿日本鉄道HPより 

近畿日本鉄道HPより 

爽やかな青色が映える クラブツーリズムHPより

 

そんな“てっちゃん”にとっては当たり前のことも知り得ることのできる、きんてつ鉄道まつりだった。

 

 

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Kintetsu Railway Festa in Shiohama

Ep.263

Kintetsu Railway Festa in shiohama organized by Kintetsu railway company holds in once a year in Shiohama train depot.

Special trains exhibit, sales of goods, any programs for kids though, lots of adults visit here.  Because obtaining “scrapped materials” are their purpose!

 

kintetsu-tetsudo-matsuri.jp

www.kintetsu.co.jp

 

伊勢うどん

Ep.262

クタッとした麺に甘くてトロッとしたたまり醤油がかかった伊勢市の郷土料理。

伊勢うどんである。

 

由来は江戸時代、伊勢神宮への参拝客に提供されたことに始まる。

 

 

ただし伊勢うどんを美味しいと言う一般ピープルに私は今まで出会ったことがない。

地元出身の同僚も一度でも食べたことのある人間も「伊勢うどんは別に美味しいものじゃないよ」とよく言うし実際に私もそう思う。

「美味しい」と言うのはテレビの中の食レポのタレントたちだけだ、と思っていた。

 

 

潮目が変わった(私の中で)のは先日、椿大神社(つばきおおかみやしろ。Ep.16参照)を訪れて同神社脇の食事処、椿会館にて「伊勢うどんとりめしセット」を食べたときだった。

 

茹ですぎに思える麺と甘い醤油。だが互いにベストなパートナーであり、これで良いのだと思えてきた。図らずも「伊勢うどんは美味しい」のだと初めて思ったのだった。

 

 

そんな伊勢うどんを使って新しい料理に挑戦してみよう。

 

近鉄百貨店四日市の「伊勢路テラス」には完全にお土産用の小綺麗なパッケージングのものが売られているが本来、伊勢うどんは“ファストフード”なのであってこれは似つかわしくない

スーパーで見かける伊勢うどん

 

まずは肝心の麺だがこれはスーパーで売ってるものを入手。観光客向けの小綺麗なものがあることは知っているがこれには手が伸びなかった。普段は意識して見ないが四日市市内のスーパーでも置いていた(ただし1種類)ためそれを入手。

 

1. 伊勢ざるうどん

単純にざるうどんにしてみるとそこまで違和感なし。舌触りは讃岐うどんのようだが、“重さ”はその10倍ある感じ。

伊勢ざるうどん

 

2. 広島風お好み焼伊勢うどん入り

遠い遠い記憶。幼少期に広島県に住んでいたとき、隣の家に住んでいたお友達のおばあちゃんがお好み焼きを作って持って来てくれたことがあった。あれにそばは入っていただろうか?

もはや知る術はないけれど、広島のお好み焼きにそばが入ることがあるのは確かだ。ただし、それがうどんである場合もまた、あるのだが。

 

イメージ 広島風お好み焼き(そば入り) 旅色 HPより

 

そんなわけで伊勢うどんを入れたお好み焼きを作ってみよう。

 

参考 広島風お好み焼き(そば入り)

島風お好み焼伊勢うどん入り

 

マヨネーズがちょうどなくなってしまったので見た目がいまいちなのだが食べてみるとなかなかいい。

しかしさすがはうどん。そばよりもやはりお腹にたまる。これではすぐにお腹いっぱいになってしまう。

うどん入りのお好み焼きを、お店で見ないわけがわかった気がした。

 

 

3. カルボナーラ伊勢うどん

安易な発想だが伊勢うどんカルボナーラを作ってみる。

カルボナーラ伊勢うどん

 

思った以上に違和感なし。

釜玉うどん(茹でたてのうどんに生卵を混ぜる)というものが世にあるくらいなので当然だ。

もったりした麺とねっとりしたソースがとてもあう。

 

 

ということで3品を作ってみたがいずれも、伊勢うどんであることの必然性に乏しいのが残念なところ。

しかしもし“コシのあるうどん”に飽きたときは、伊勢うどんという選択肢もまた、あるのだ。

 

御木本幸吉 ミキモト真珠島 HPより

沢村栄治 Wikipediaより

 

余談だが、“真珠王”御木本幸吉(Ep.10参照)の真珠養殖前の家業と、“伝説の大投手”沢村栄治Ep.240参照)の実家の家業は、うどん屋だった。

彼らのお店では伊勢うどんも提供していたのだろうか?

 

鳥羽出身の御木本幸吉はまだしも、沢村栄治の家は伊勢市で現在の宇治山田駅の近くだったとのこと。伊勢うどんを、あるいは出していたかもしれない。

そんな想像をするのもおもしろい。

 

 

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Ise Udon

Ep.262

伊勢うどん Ise Udon is one of the regional food of Ise, it’s very famous one.

People have tried this think that it’s not yummy though, a few people understand it’s good food.

In this time, I tried cooking below.

1. Ise Zaru Udon

2. Hiroshima style Okonomiyaki included Ise Udon

3. Carbonara Ise Udon

These are new ones expand possibilities of Ise Udon.

 

www.maff.go.jp

www.kankomie.or.jp

 

滝川一益

Ep.261

戦国時代、織田信長が誇る優秀な家臣団の一人だった滝川一益(たきがわかずます)

鉄砲を特技としたイメージのある彼は、旧・伊勢国(現在の三重県)と最も関わりが深い戦国武将の一人である。

 

滝川一益 Wikipediaより

 

甲賀出身であることから「忍びの者(忍者)」だったとも連想される一益だが、特に人生の前半期は謎が多いという。

そんなこともあり彼をメインに据えた創作物の数は乏しいが、限られた小説の中から読んでみよう。

 

 

<小説『忍の人 滝川一益』(徳永真一郎、1990年)>

徳永真一郎『忍の人 滝川一益』(毎日新聞出版、1990年)

 

まずこれは小説と呼べるのだろうか? という疑問がわく。登場人物たちの内面描写にはほぼ踏み込まず淡々と史実(正確には著者による解釈)を客観的につづる。

マイナーな人物(国衆など)の記載に詳しいが羅列しているだけなので無味乾燥であり、著者の作品に託す想いのようなものが見えにくい。

そのため小説作品として面白くはないのだが経時で出来事を追っているので流れや概観はわかる構成になっている。

 

副題に「滝川一益(本作では読み方を「いちます」としている)」とあるので彼の人生を記した作品と思いきや、全体の3分の2は天正伊賀の乱Ep.257参照)についてであり、しかも一益は第一次(1579年)には参戦していないので主人公抜きで延々と進んでいくのも拍子抜けする。

 

 

<小説『乱世をゆけ 織田の徒花、滝川一益』(佐々木功、2019年)>

佐々木功『乱世をゆけ 織田の徒花、滝川一益』(角川春樹事務所、2019年)

 

甲賀出身という出自を活かして一益は凄腕の忍者として描かれる。忍術・忍法モノ。

服部半蔵(徳川家)と共闘して加藤団蔵(武田家)と対峙する。いずれも創作物で登場する著名な忍者だ。

 

「忍び」として生まれ育ち、常人とは異なる感性と価値観で生きてきた男が、織田信長という人物に出会い、惚れ込み、「侍」となってゆくことでやがて自らの身を滅ぼす。

パーソナリティの変質や人間としての成長を描いている。それはわかるのだが本作で描かれる滝川一益にいまいち魅力が乏しい。クールで寡黙なキャラにしすぎているのではなかろうか。

 

マンガ『花の慶次』で人気の前田慶次(郎)は元々滝川の一族で、後に前田家に養子に入ったようだ(前田利家が叔父にあたる)。『乱世をゆけ』においても無邪気で豪快な人物として描かれる

 

しかしまた一益の知られざる一面に光をあてているのがいい。

三方ヶ原の合戦でも既に全体量の3分の2まで進んでいるので、この人物の前半期を重点に取り上げている作品と言える。なおかつ作中でピックアップされている史実に基づいた出来事は、

・織田-徳川同盟樹立のための働き

三方ヶ原の合戦(敗北)

・北条氏との合戦(敗北)

となっており、これらは必ずしも成功談・勝ち戦ではない。

著者が深く掘り下げたいと思った出来事に焦点を絞っており、それが奏功していると思う。(賤ヶ岳の合戦は記述だけ。小牧長久手の戦いについては完全になし)

 

特に北条氏との合戦は、一益にとって関東着任直後かつ本能寺の変直後。

いまだ味方として信頼のおけない上州の大名たち(真田昌幸など)に疑心暗鬼し、それは織田につくか北条につくか逡巡する彼らにとっても同じで、そんな互いの心の動きを追ってこの合戦を描いた作品は過去になかったと思う。

 

滝川一益 信長の野望 覇道より

 

あらためて滝川一益という人物の概観を記したい。

[滝川一益の人物概観]

・1525年生まれ(信長の9歳年上)、甲賀(現在の滋賀県)出身

・1555年頃から信長に仕えたとされ、最終的に家臣団No.2あたり(柴田勝家の次)まで昇りつめる

・信長は美濃(岐阜)攻略と並行して北伊勢の攻略に着手。その中心人物が滝川一益。後に伊勢長島城主

・長島の一向一揆Ep.29など参照)、天正伊賀の乱Ep.257参照)、長篠の戦い、甲斐攻めなどに参戦

・特に長篠の戦いでは、有名な鉄砲隊を効率的に配する戦術を考案したとされ、甲斐攻めでは敵の大将、武田勝頼を討ち取る武功を挙げて武田家を滅亡させた

・その後、関東管領(かつての上杉謙信のポジション。このとき本拠地にしたのは現在の群馬県に。関東と奥羽の大名(北条氏・蘆名氏・伊達氏など)に睨みをきかせ、懐柔・攻略をおこなう織田家の「関東方面軍」の軍団長としての役割が期待されたところで本能寺の変が勃発

・上州(群馬)から急ぎ京へ行こうにも北条氏政・氏直が翻ったため交戦し敗北。仕方なく中山道から帰るも既に明智光秀は秀吉によって討たれ、かつ清洲会議にも間に合わない痛恨

・その後、柴田勝家織田信孝(信長の三男)に味方。一益は再び北伊勢に戻り両者とは別働して峯城(亀山市)や長島城(桑名市)を舞台に秀吉側と戦う賤ヶ岳の戦い一連)も、勝家・信雄の自害により降伏。一益は助命されるが蟄居させられる

・小牧長久手の戦いで復帰。秀吉側として織田信雄(信長の次男)&徳川家康連合と対峙する。しかし無断で家康に降伏しようとたことで秀吉の怒りを買う。これにより戦国武将としては終了。越前で出家。1586年没(61歳)

 

滝川一益 Wikipediaより

 

[滝川一益三重県1;北伊勢攻略の大将]

尾張(愛知県西部)から京を目指した信長の前に立ちはだかったのが美濃の斎藤氏(道三・義龍・龍興)であったことはよく知られているが、同時に伊勢(特に北部)も攻略した。

北伊勢攻略は、地理的には当然である。岐阜に向かって西進するならその手前に三重県北部があるのだから。

そして北伊勢攻略の大将に任命されたのが滝川一益だった。

 

一益は甲賀出身とされるが、出自や士官するまでの経歴の詳細は不明。それでも光るものがあったために信長は召し抱えたのだろうが、海のものとも山のものともわからなかったはずだ。

しかし大将に任命すると、信長の予想よりも迅速に現在の桑名市いなべ市を攻略したようだ。

そして一益は、さらに南下して伊勢侵攻を深めていくのだが、それには信長による事前の驚くべきアシストがあった。

 

北伊勢(現在の鈴鹿市)の有力家である神戸(かんべ)家に、自身の三男・信孝を養子に。

同じく中伊勢(現在の津市)の有力家である長野家、自身の弟・信包(のぶかね)を養子に出したのだ。

破竹の勢いの織田家とこれら伊勢国の大名たちとは対等な力関係とは言えない。人質という名の他家乗っ取りであった。

 

ここまで来た後、当時の伊勢国の最大勢力であった名門、北畠家と対峙することとなった。これが大河内(おかわち)城の合戦である。これには信長自らも出陣した。蒲生氏郷Ep.252参照)の初陣がこの戦である)

しかし容易に落とせないとみるや、ここでも先と同じ戦術に切り替える。

自身の次男・信雄(Ep.182参照)を北畠家に養子に出したのだ。

 

なんと、自身に最も近い血縁の男子(“連枝衆 れんししゅう”と言う)をのきなみ伊勢国に送り込んだのである。

というわけで“地ならし”は既にあったものの、伊勢攻略の大将として仕事を終えた滝川一益

見事、信長の期待に応え、以降は北伊勢を所領とする。

 

時は飛んで本能寺の変後、伊勢国に帰還した一益は、先述の通り峯城(亀山市)や長島城(桑名市)といった北伊勢を戦闘の舞台とした。

蟄居から連れ戻された後の小牧長久手の戦いでも、伊勢湾の白子(しろこ。現鈴鹿市)から蟹江(かにえ)城(現愛知県蟹江町)といったやはり北伊勢での戦闘。

 

こうして列挙してみると北伊勢のあっちこっちで戦をし、北伊勢と言えば滝川一益と言えるほど暴れまわっている。

彼は、太平の時代を城主として長いこと伊勢で過ごしたわけではない。その意味でやや特異的である。

 

 

[滝川一益三重県2;四日市と最も関係の深い戦国武将]

当時の伊勢国における「北伊勢」とは、現在でいう北勢(ほくせい)地域に津市を含めるような感じだろうか?

北伊勢でも北勢でも、現在の「三重県北部」を指すものと考えて大きく相違はなさそうだが、私は最近この時代を舞台にした一連の小説や評論を読む中で、現在の桑名市鈴鹿市、津市、亀山市はよく舞台として登場するのに対し、四日市市は全く出てこないな、と感じていた。

 

だが、決して四日市は同時代において“無視”されていたわけではないことを知る。それは割と偶然だった。

そしてまた、おそらく四日市と最も関係の深い戦国武将も滝川一益だと思うに至ったのだった。

 

 

四日市あすなろう鉄道Ep.163213参照)の赤堀駅には、表示板がある。

それによると「当駅より600mのところに赤堀城があり、1575年に滝川一益により攻撃を受けた」のだとあった。

まさに一益による北伊勢攻略戦のことである。

 

日永つんつく踊り 大四日市まつりHPより

You Yokkaichiより

 

加えて、市内の日永地区(Ep.86140など参照)には「日永つんつく踊り」というものがある。同地区の小学生はみな踊れるのだと、職場の同僚から伺った。

私は実際に見たことはないが、盆踊りのようなもので、市の無形民俗文化財に指定されている。大四日市まつり(Ep.122参照)でも披露される。

そしてこれの起源についての説明を四日市市HPで読んだとき、私は驚愕した。

 

滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承

滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承

 

なのだという。(実蓮寺(じつれんじ)とは日永にある寺。天白川(てんぱくがわ)とは日永に流れる川である)

あくまで伝承なので確証はないのだろうが、一益がこの四日市にいた証になりそうだ。

 

もう一つ面白い事実がある。

滝川一益が世に初めて登場する書物は「信長公記(信長の家臣、太田牛一による信長の一代記)なのだが、その場面というのが実は盆踊りの記事(1555-1558年)なのだ(場所は愛知県の津島のようだ)。

稀有なことだと思う。高名な戦国武将の初出が踊りの場面なのだから。

 

このときの一益の踊りが日永つんつく踊りと関連するのか、については当然わからないが、興味深い。

一益は、踊りが好きだったのかもしれない。

先述の小説『乱世をゆけ』では忍者としてクールに描かれた一益だが、踊りが好きだった、と考えると妙に人間臭くなって一気に現実感が増してきた。そんな想像をするのも楽しい。

 

 

[滝川雄利(かつとし) 滝川姓を持つもう一人の戦国武将]

滝川雄利 信長のWikiより

 

天正伊賀の乱の回(Ep.257参照)で紹介した小説『山河果てるとも』を読んでいるとき、強烈なインパクトを放つ織田信雄重臣が登場する。まさに“悪の権化”ともいえるキレ者である。その男は滝川雄利(かつとし)という。

一般にはほぼ知られていない彼であるが実在の人物で、どうやら非常に優秀な武将だったようだ(実際に悪だったかは別として)。そして滝川雄利もまた、三重県との関わりが深い

 

北畠氏を支える木造(こづくり)氏の出身であるという雄利。一益から滝川姓を与えられ、彼の娘を妻にしたとも(つまり一益にとって娘婿)。

先述の信長の調略により、次男・信雄に北畠家を乗っ取らせた後は信雄に仕え、元主君・北畠具教を暗殺(三瀬の変)。以降は信雄を支え、天正伊賀の乱(第一次・二次とも)に参戦。

 

一益が没落した後も信雄に仕えたため伊勢国を本拠とし、功績が認められ、なんと秀吉から羽柴姓を与えられる。

小牧長久手の戦いでは信雄に味方して秀吉と対峙。ここで雄利は四日市の浜田城に籠城して羽柴秀長相手に奮戦したという。

 

「浜田城ってどこよ?」と思い調べると、なんと現在の鵜の森公園なのだという。近鉄四日市駅南側の市民の憩いの場であり、同公園内の茶室、泗翠庵(しすいあん)では茶道に親しめる。

鵜の森公園とは、浜田城跡だったのだ。

 

鵜の森公園は改修工事中だった(25年春)

 

秀吉の時代は九州攻め、小田原攻めにも出陣。徳川の世になって2代将軍・秀忠から常陸国の片野藩の初代藩主に任命されたという。

 

常陸国の片野ってどこよ?」と思い調べると、なんと現在の石岡市のことだった。

石岡、と言ってもきっと多くの人はピンとこない。茨城県の、土浦と水戸の間だ、私の地元・つくばにも近い。高校時代、石岡から通っている友人や先輩たちが何人もいた。

 

片野城跡 石岡市HPより

 

私は頭がくらっとした。

現在私が暮らす三重・四日市(浜田城)と、私の地元に近い石岡(片野藩)との結びつきなど、まるで考えたことがなかったからだ。

けれど両者をつなぐ人物がいたのだ。

滝川姓を持つもう一人の戦国武将、滝川雄利。

 

参考文献)

・谷口克広『信長軍の司令官 部将たちの出世競争』(2005年、中公新書)

和田裕弘織田信長の家臣団 派閥と人間関係』(2017年、中央公論新社)

・徳永真一郎『忍の人 滝川一益』(1990年、毎日新聞出版)

佐々木功『乱世をゆけ 織田の徒花、滝川一益』(2017年、角川春樹事務所)

 

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Takigawa Kazumasu

Ep.261

A feudal warlord 滝川一益 Takigawa Kazumasu (1525-1586) was one of the chief vassals of Oda Nobunaga.  And he was a man had close ties to Ise region (present Mie prefecture).

He was active in ”Ise invasion” as Oda’s supreme commander and then became lord of this place.

There are many historic ruins associated with him ever nowadays.

 

www.city.yokkaichi.lg.jp

www.youtube.com

 

 

四日市文化会館 大黒摩季ライブツアー2025

Ep.260

四日市文化会館

1982年に完成した多目的ホールで2019年にリニューアル。最大規模の第1ホールの収容人数(客席)は1800席弱。

それなりの施設ではあるものの「30万人都市の多目的ホール」としてはやや寂しい感は否めない。(ただしこれより大規模な施設として四日市ドームEp.137参照)がある)

 

 

それまでこの施設を利用したことはあったが、それはやや味気ない思い出である。

私は「危険物取扱者甲種免許」を持っていて化学薬品を扱う業務に従事しているので3年に一度「危険物取扱者保安講習」を受講する必要があり、その会場がここなのだ。

 

さすがは化学メーカーが集結する産業都市、四日市。保安講習の年間開催頻度は多く、各回の参加人数も多く、第1ホールが一杯になる。

講習自体は、席に座って前方ステージのスクリーンに映された事故事例や安全等に関するビデオ試聴をメインとし、講師の方の3時間の講義を受けるだけ、というもの。講習後に確認の小テスト(それで一定の点数を満たさないと免許交付されない)などはない。

であるがゆえに、受講者の集中力は低い。

 

先日受講した際、会場入りした時間が遅かった私は後方の席に座って聴講したら驚愕した。

私の周囲の受講者の9割が、手元のスマホをいじっているか、イヤホンを耳にしているか、昼寝しているか、でまともにスクリーンなんて観ちゃいない。

講習自体は「業務時間扱い」になるのであろうが、ビデオを観るだけで勤務になるからラッキーとみな思っているのだろう。このような人たちが、石油化学コンビナートや化学プラントの運転員や技術者であり、つまりはこの街の産業を支えているのだった。

 

「ビデオなんて観ても意味ない」という理屈は通用しない。受講が当該免許更新のルールであり内容が聴講なのだから。いざ事故を起こしたときにビデオ内容が頭に入っていれば役に立つかもしれないし、何より講義を聞かないなんてのは講師の方に対して失礼だろう。

 

それに引き換え私はなんて真面目なのだろう。3時間の聴講中スマホなんて一度も見ないでずっとスクリーンに目を向けていた。集中はしていないけれども。

 

四日市文化会館 HPより

四日市文化会館 HPより

四日市文化会館 HPより

四日市文化会館 HPより

 

そんな四日市文化会館はまた、ポピュラーミュージックの歌手たちのコンサート会場としても利用される。

この数年間、同会場を利用したアーティストに関して私が知る範囲+これを機に調べてみたところ、

郷ひろみさだまさし玉置浩二徳永英明GreeeeNあいみょん(!?)、浜崎あゆみ(!!!?)といった人たちが来ていた。

 

そして今春、同会場はまた一人大物歌手を迎えた。

 

AERAデジタルより

 

大黒摩季

1992年にデビューした女性ポップス歌手で黄金の”90年代のJ-pop界”を生きた伝説の一人である。(Ep.255参照)

 

摩季さんは現在55歳なので私にとっては一回り以上世代が違う。けれど私は高校生のとき、自宅から高校までの片道13kmの退屈な道のりにおいてこの人の音楽を聴きながら通ったことは思い出だ。2001年〜03年の話である(Ep.157参照。もうそんなに経つ!?)。

 

衝撃的な歌詞であり、かつTVアニメ「スラムダンク」のエンディング曲でもあった『あなただけ見つめてる』(1993年)

激しいビートとシャウトが特徴のハードな曲『熱くなれ』(1996年)

同様に彼女の声の出力の高さに圧倒される『チョット』(1993年)

一転してパワーバラードとも言える『あぁ』(1996年)

SMAPのリーダーが主演したTVドラマ「味いちもんめ」の主題歌だったことは今やみんな忘れがちだがその枠を飛び超えて万人が知る名曲となった『ら・ら・ら』(1995年)(後述)

 

上記の曲は高校の自転車通学時、実によく聴いたものだった。

こうして見ると皆90年代前半に発表された曲なので、当時でもすでに5〜8年経過していたのだと気付く。最新曲ではなかったけれど、レンタルビデオ屋で摩季さんのベストアルバムを借りていいなと思った曲をMDに入れていたのだ。

 

あなただけ見つめてる』(1993年) あぁこのサイズと形状が懐かしい。当時のシングルCD

 

声量を活かしたパワフルなヴォーカルと、”歌詞のわかりやすさ”が好きだった。

例えば、

 

あなただけ見つめてる 出会った日から今でもずっと あなたさえそばにいれば他に何もいらない(『あなただけ見つめてる』より)

 

あぁ 君のように輝いてみたい 冷たい風に吹かれても負けない君にように(『あぁ』より)

 

のサビの歌詞なんて字面を追って”そのまま”の意味と捉えればよさそうだ。難解だったり意味不明だったりする人たちとは違う。不自然に英語を入れたりもしない。

深読みしなくていい。わかりやすい。だからいいのだ(というようなことを言うと逆に失礼だろうか?)。

 

当時の摩季さんの所属レコード会社の同僚ともいえる人たちの歌、

 

負けないで ほらそこにゴールは近づいてる どんなに離れてても心はそばにいるわZARD『負けないで』(1993年)より)

 

世界中の誰よりきっと 熱い夢見てたから 目覚めて初めて気づく つのる想いに中山美穂世界中の誰よりきっと』(1993年)より)

 

願い事ひとつだけ叶えてくれるなら 傷つけあった愛が始まらないように小松未歩『願い事ひとつだけ』(1998年)より)

 

のサビも同様に「ド直球」と言えるもの。

自分の想いや感じたことを、普遍の事柄を、ストレートに歌詞に載せる。わかりやすい。

 

この上なくシンプルだ。であるがゆえにとても難易度の高いことのはずだ。いわゆる「ビーイング」系アーティストの最大の特長だったと思う。

 

ら・ら・ら』(1995年)

 

私が一番好きな大黒摩季さんの曲は『ら・ら・ら』で、これは2006年頃に個人編集した「人生で好きな曲トップ30」プレイリストに入れていたな..

ただそんな彼女の曲を、以後よく聴いてきたかというとそんなことはなかった。

だから今回、時計の針を動かすことにした。

 

今春、四日市文化会館で彼女のコンサート「MAKI OHGURO LIVE TOUR 2025」があると知り、四日市市民の立場を活かしてチケットをとったのだ。

そして当日までにApple Musicで彼女のこれまでのすべてのアルバムを繰り返し聴いて予習して臨んだのだった。

 

『熱くなれ』(1996年)

 

それにしても四日市文化会館に有名歌手のコンサートを観に行くというのは“奇異”な感じがする。なぜだろうか?

奇異の正体を考察すると、

私の連続的な日常の延長線上に突如、”向こうからそれがやって来る”、ところにあると思う。

自分の暮らす街の知っている場所に、危険物取扱者保安講習が開催されるあの会場に、大黒摩季がやって来るのだ。

例えば私がライブで名古屋に行く(=能動的に非日常を味わいに行く)こととは根本的に違う。

 

当日も開演は17時からだったので、直前まで私は毎週そうするように四日市市立図書館にいた(四日市文化会館からは目と鼻の先)。

しかも時間調整のため16時半まで自習室で読書をすることまでしていた。

ここまでは変わりのない土曜日のルーティンだったので「ホントに大黒摩季この街に来てんのかよ?」とか「30分後にホントにライブ観てんのかよ?」などと思っていたのだった。

 

 

会場に到着。入場するために列を成す人々を見ると私より年配の方が多い。私のような30代で男性一人というのは他に見当たらない。

客席に入ると「これは危険物保安講習とはまったく場が異なるな」と思った(当然だ!)。

軽くミストがかけられている。なぜだ? 幻想的にするためか? 光(照明)が水滴で散乱している。

 

周りを見渡すとやはり一回り以上年配の方が多い。大黒摩季世代なのだろう。

私の左席の女性もそれにあたり、スイッチで色が替わる調色ペンライトを手に持って今か今かと開演を待っている。(このグッズ、欲しいなと思った)

その間「マキーーー!」とか「ひゃーーーー!」などと言っている。

「げっ。まじかよ..」と心の中で思ったのが正直なところだが、結論から言うとこのような熱狂的なファンの方が隣にいた方が私自身のテンションも高くなって良かったな、と思う。

 

大黒摩季 公式Web Siteより

 

ステージのとばりが上がってついに開演した!

ロックバンドの登場だ。文字通り、”轟音”を鳴らして曲が始まった。中央にいる大黒摩季さん。サングラスをしてエレキギターを弾きながら歌い出す。まさにRock ’n’ rollだ!

 

ビジュアルを見て、何だかTHE ALFEEの高見沢さんみたいだなと。髪色は赤紫。これはドラゴンボール超スーパーサイヤ人ゴッド形態の悟空みたいだと思った。(本人は後のトークSUGIZOLUNA SEAX JAPANのギタリスト)みたいと言われるとのことだった)

 

スーパーサイヤ人ゴッドの孫悟空 映画『ドラゴンボールZ 神と神』 ドラゴンボールオフィシャルサイトより

MAKI OHGURO LIVE TOUR 2025での大黒摩季さん OTOTOYより

 

最初のセットは今夏リリース予定の新アルバムからとのことだった。ハードなロックである。

トークが始まり観客に語りかける摩季さん。盛り上がる客席。

 

とここに至って私が気付いたことは、私は大黒摩季という人がどんなパーソナリティなのかをほぼ知らない、という事実だった。

昔、何かのバラエティ番組をたまたま観ていて、それにたまたま出演していた彼女の姿しか、歌っているとき以外の姿を見たことがない(もっと言えば歌番組にも出演しないので歌っている姿さえ見るのは初めてかも..)。

その番組の記憶だとクールな人という印象があったが、今回こうしてトークを聞くとお茶目でcuteな人なのだと知る。

とともに、この後私は彼女の圧倒的なトーク力を知り、会場の人たち全員に語りかける言葉の強さにひれ伏すこととなる。

 

MAKI OHGURO LIVE TOUR 2025での大黒摩季さん OTOTOYより

 

「普段の生活で疲れているお母さんも、今日だけは女の子に戻っていい」

「つらい時は逃げだしたっていい」(今夏リリース予定の新曲『イチヌケタ』に繋げて)

 

とこの場を目一杯楽しむよう促す。

自身の音楽の核はロックであること、ジャニス・ジョプリンに衝撃を受けたこと、55歳となり大黒摩季としての役割はもう充分果たしたため今後は自分の好きなことに取り組むと決意したこと。

そして繰り返し述べるバンドメンバーへの感謝の想い。

 

三重県と自身の関わりも話していた。

四日市に来たのは今回が初めて。ただ20年前にはナガシマリゾート(Ep.3283155246参照)でカウントダウンライブを、数年前には伊勢でライブをしたこと(当時の観客も今回結構来ていた!)。

アリーナでコンサートをしようとするアーティストにとって、どうしても三重は「通過」してしまう場所なのだ、と言うと観客はどっと湧いた。しかし自身はジョニス・ジョプリンに倣って全国ツアーに力を入れていること、ユーミンの次に全国を回っているのは自身だとも。

 

前夜に食事をしたという一番街(商店街)のお店の近くにあったからくり人形に言及したことに私は驚いた。

「中入道(ちゅうにゅうどう)のとこ行ったんだ!」

 

中入道(ちゅうにゅうどう) 中日新聞より

 

終盤のトークでは「最近私と同世代の人が亡くなる」と切り出す。

KANさんや中山美穂さんのことだった。『世界中の誰よりきっと』のサビの高音パートのバックコーラスは私なのだと貴重な情報も披露。

「まだ色々できるのにそれを自分の内に留めたままで終わってしまうのは残念でならない。だから私は出し惜しみしない!

とも。それを聞いたとき私は心の中で喝采した。とともに自問した。

出し惜しみしない→日々を全力で生きる。それを私は実践できているだろうか、と。

 

そして、90年代に発表した伝説の楽曲たちのパフォーマンスが始まったのだった。

 

Billboard Japanより

 

<別格の存在感を放つ90年代の楽曲たち>

「お待たせしました、スラムダンクの曲です」

と紹介して『あなただけ見つめてる』がスタート。

「まだまだヒット曲たくさんあるよ〜」

と煽って『夏が来る』『DA・KA・RA』『チョット』『熱くなれ』を怒涛の熱唱。

観客も、これら楽曲群のパートが始まって1段、2段ボルテージが上がったのが明確にわかる。

今回のライブに大黒摩季のコアなファンが多く来ているのは判明していたが、私が驚いたのは「そんな人たちにとっても90年代の歌は特別なんだ!」という事実だった。

私は改めて、空前絶後のJ-Pop黄金時代である90年代の楽曲が持つ圧倒的なパワーを、まざまざと見せつけられたのだった。

 

今回のライブツアーのヴィジュアルイメージ OTOTOYより

 

<奇跡の曲『ら・ら・ら』>

ら・ら・ら』を歌わずに本編が終わってしまったが当該曲をアンコールで歌うというのは定番らしい。

アンコールのトークが長引いていると「さあ早くあの歌、歌うよ」とバンドメンバーから促される摩季さん。

腰をあげた本人が

大黒摩季の歌を今日初めて聞くというみなさん、今まで2時間お待たせしました!」

とする曲紹介が憎い。90年代を知らない若い世代にとっては「大黒摩季=ららら』になっているかもしれない。説明不要の代名詞的曲が始まった。

 

らららを歌いながら客席を回る摩季さん。

私はまた、この曲が放つ凄まじいパワーにひれ伏すこととなった。

 

Billboard Japanより

 

以前、『ら・ら・ら』の詩の制作秘話が新聞記事に載っていて読んだことを今でも覚えている。

作曲が済んだ曲に関し、歌詞を付けるメロディー全編に「ラララ」という仮の声を載せて録音。これをイヤホンで繰り返し聴くことで、歌詞を考えていくというのが摩季さんの作詞スタイルなのだという。

しかしこの曲を作詞する際、サビを「ラララ」から取り替える歌詞が最後まで浮かばず、結局、そのまま「ラララ」にしたのだという。

歌詞はラララのままでいいのだというアイデア”が摩季さんのもとに“降りて”きたのだ。

 

そんな伝説的エピソード持つ『ら・ら・ら』を歌う。

 

サビは全員が知っている。みんな歌える。だから四日市文化会館に大合唱が起こった。

ライブは、圧倒的なグランドフィナーレへと向かっていた。

 

これは英ロックバンド、oasisの『Don’t Look Back in Anger』のように、超特大のアンセムだ。

これは奇跡の曲である。

なんていい歌なんだ、と純粋に私は感動していた。

そしてライブは幕を閉じたのであった。

 

2025ライブツアーは前半戦の今「55BLACK」から後半戦の「55RED」へと続く BARKSより

 

この日まで、大黒摩季というアーティストは『あなただけ見つめてる』や『ら・ら・ら』の詞に代表されるように、”恋人への想いの強さ”を持つ人だとの印象を持っていた。

今回それは、自身のバンドメンバーやファンへの想いの強さについても同様なのだと知った。

「私は出し惜しみしない」という摩季さんの言葉。今後の活躍と作品を楽しみにしている。

 

 

ということで今回は主として大黒摩季コンサートについて書いてしまったわけだが、

「このブログの著者はこのブログで「三重県についての話題しか書かない」と宣言しておきながら今回は三重県とは全く関係ない人(=大黒摩季)についてじゃないか」、とか

「たまたま「会場が三重県」だったからそれはルール内なのか?」、とか

「もう三重のネタが尽きたのだろう、このブログも終わったな」

などの声が聞こえてきそうでこれについて強く反論はできないが、私は四日市文化会館という「場」が、コンテンツによって様変わりする、ことを伝えたかったのだ。

と記したところで今回を終わりしたい。

 

 

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Yokkaichi Cultural Hall “MAKI OHGURO LIVE TOUR 2025” in Yokkaichi

Ep.260

Yokkaichi Cultural Hall, which is a main hall for this 300 thousand people’s city are utilized symposium, concert and some events.

There are about only 2,000 seats though, some famous singers select here.

In this spring, Ohguro Maki who is one of the living legend singer from 90’s hold her concert.

Her performance was incredible!

 

yonbun.com

ototoy.jp

maki-ohguro.com

 

ラグビー 三重ホンダヒート 24-25シーズンの集大成 Division1/2入替戦 編

Ep.259

5月下旬、Japan Rigby League ONE、24-25シーズンのDivision1/2入替戦がおこなわれた。

レギュラーシーズンを11位(ビリから2番目)で終えた三重ホンダヒートはDivision2の2位で終えた花園近鉄ライナーズと対戦することに。(ヒートの過去の入替戦はEp.154207参照)

 

ヒートは、この場所に来るべきではなかった。

シーズン中盤以降にまったく勝利できず再び弱いチームに戻ってしまったのが残念だ。

 

第18節リコーブラックラムズ東京戦 三重ホンダヒートHPより

 

レギュラーシーズン最終節戦の惨劇

既に順位と入替戦行きが確定していたヒートは最終18節(5/11)のリコーブラックラムズ東京戦、メンバーを落として臨んだ。

その選択は正しいのだが、結果と内容は「惨劇」というに相応しいもので(22-67で敗北)、表現に品がなくて申し訳ないが、これはゴミのような試合だった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

タックルに、ボールキャリーに、気持ちが入ってないのは明らかで、時間とともに、点差とともに、みるみる選手たちの心が折れていったのがありありとわかる。

「こんなんだったらやめちまえよ!」と心の中で私は何度も罵っていた。

こんな試合を選手たちに見せられたら、エディー・ジョーンズ監督(日本代表)や沢木敬介監督(横浜E監督)はブチ切れてわめいていたに違いない。

ヒートのキアラン・クローリーHCは試合後「言葉が出ない(ほど酷い)」と言っていたが温厚そうな人だからそんなに怒らないのだろうか?

いや先述の2人でも今やパワハラが厳しい時代だし「ロッカールームの中は聖域」だったのは過去のこと。もう選手たちを激しく叱責することはできないのだろうか?

 

だとしたら誰が選手たちに伝えるのだろう? これは許せない。キミたちは酷かったと。

ここ数年のヒートの公式戦の全試合の中で最低の試合だった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

相手バックスが順目で普通にパスを展開しているだけでタックルにも入れず相手の影すら踏めずゲインラインを突破され、背走。何度このシーンを見たことか。これは高校ラグビー強豪校vs弱小校の試合を見せられているかのようだ。

 

加えて腹が立つのは、ヒートは同じ相手に開幕戦、勝利していることだ(23-21)。

1.5軍メンバーとはいえ、こんなに弱くなるのはあり得ない。

だから結局、想いの強さの問題なのだ。目の前の試合に勝利するという。

これまでこのチームを応援してきたのがばかばかしくなる試合だった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

Division1/2入替戦 第1戦

惨劇から2週間後、入替戦第1戦がビジターの花園ラグビー場でおこなわれた。

試合に先駆け発表されたヒートのスタメンの15人、及びベンチ入りを含む計23人のメンツを見たとき「ああ、確かにこれがベストオブベストのメンバーだな」と納得した。

LOフランコ・モスタート、No.8パブロ・マテーラ、FBトム・バンクスというヒートにおける“ビッグスリー”に加えてWTBレメキ・ロマノ・ラブァが名を連ねている(間に合った!)。

 

であるがゆえにヒートはDivision1の貫禄を見せつけて無難に勝てるだろう、という私の楽観は見事に裏切られることとなる。

 

第1戦 三重ホンダヒートHPより

 

前半6分の近鉄の先制トライに始まり以後ヒートはずっと劣勢を強いられる。7-15で折り返す。「近鉄、強いな…」と観ていて私も絶句する。

相手のディフェンスが固い。ヒートのFWは、いつもだったらもうワンプッシュ、ツープッシュするところができない。「Division2のチームはDivision1のチームのアタックに耐えられないだろう」と思ってたのは甘かった。かなり苦しい戦い。

 

三重ホンダヒートHPより

 

後半早々、WTBレメキのトライで12-15に迫る。この選手にトライを獲らせたことはすごく良かった。

レメキは、きっと怒っていた。最終節で1.5軍メンバーが最低の試合をしたこと、自身は怪我が多く今シーズン多く試合に出られなかったこと、そしてこの試合の前半、うまくいかなかったこと。

そのフラストレーションが、大外でボールを受けてわざわざ左肩で相手タックラーをチャージしながらグランディングしたこのシーンに表れていた。

 

トライ後のセレブレーションもほどほどに、締まった顔でゲームに戻る。

私は往時のゴン中山を思い出していた。精悍な面構え、ゴールを決めて喜ぶがニコリとはしない。試合が終わるまでは気を引き締めていることが、その姿を見ればわかる。

 

三重ホンダヒートHPより

 

その後またしても相手にトライをとられてリードを広げられる。ヒートのディフェンスは相変わらずイマイチだ。

FBトム・バンクスがすぐに取り返す。大外からランしてワラビーズの同僚、相手SOクウェイド・クーパーを含む2人を吹っ飛ばしてトライ。

全盛期のWTB怪物ジョナ・ロムー(NZ)を思い出した。このサイズの選手がトップスピードに完全に載りきっていたら、もう止められないだろうな、と納得した。

 

三重ホンダヒートHPより

 

後半32分にクーパーのPKで17-25。

あぁ、これはまずいな..と思い始めたところでヒートは35分に郡司選手のトライで22-25。(あとで「この選手は誰だ?!」と思ったがこのときは気付かなかった)

取られたらすぐに取り返す、のはいいのだが一向にリードは奪えず厳しい。

 

ヒートの選手たちも、ゲーム展開が思うように運べない焦りがあったに違いない。

モスタート、マテーラ、バンクス、それに岡野喬吾という重要人物たちが痛恨のペナルティやノッコンを犯す。この辺りもイヤな空気だった。

 

とうとう3点ビハインドで79分(後半39分)。相手ゴール前20mの場所で、ならばオレが、とレメキが単騎で突っ込みラックしたかに見えたがノッコンを取られる。

「終わった..」

私は呆然としていた。頼みのレメキで最後にこれか、と。ベストオブベストメンバーで負けるんだ..。

 

79分50秒で相手ボールスクラム、主審が「Crouch!」。

「終わった」と再度思う。

この瞬間で、近鉄としてはあと10秒スクラムでマイボールキープすれば勝ち。ヒートは、10秒以内に奪い返して最終的にトライにつなげるしか理論的には勝利の方法がない。

 

しかしその唯一のパターンが起こった。

79分57秒で主審はコラプシングのペナルティを近鉄に与えたのだ。主審の笛が吹く中で80分を告げるホーンが鳴っていた。

「まさか..」

私は再度絶句していた。ペナルティを得たのは、ヒートFW陣の、というよりほとんど幸運(=奇跡)に相違なかった。

 

ペナルティキックを決めて同点でこの試合を締めず、タッチに蹴り出してラインアウトモールからトライを狙うヒート(当然だ)。

そして彼らは奇跡を勝利につなげたのだった。

 

83分、SOオ・グァンテがゴール真下のトライゾーンに飛び込んで土壇場で逆転勝ち(29-25でヒートの勝利)。信じられない結末だった。ラグビーは、(拡大的に解釈すると)10秒あれば7点取れるのだ。

 

第2戦 三重ホンダヒートHPより

 

Division1/2入替戦 第2戦

奇跡的な勝利から6日後の第2戦は今シーズンの最終戦。ほぼ第1戦と変わらないメンバーで臨むヒート。金曜夜の鈴鹿の杜にファンがつめかけた。

 

結論を言うとヒートは勝った。パブロ・マテーラとフランコ・モスタートで勝った。Division1残留を決めたのだった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

キックオフ。9分にアンストラクチャーから近鉄SOクウェイド・クーパーとSHウィル・ゲニアの二人に崩されて先制トライを許し、追いかける展開。

やれやれこの試合も難しくなるなと早々にため息が出る。

ワントライ差(5点差)で負けるとアウトなので見かけ上のアドバンテージはほぼない。

 

同点に追いついた後の24分、またトライを奪われる。ゲニアの球を放るタイミングが絶妙すぎてヒートは翻弄される。

相変わらず健在の凄まじい実力を見せつけられる。

 

近鉄は、この日も強い。前試合は不出場だったNo.8アキラ・イオアネはまさにゲームチェンジャーで常にゲインを許す。相変わらず身体の大きいLOサナイラ・ワクァの突進も止められない。

10-14で折り返す。前半終了間際にヒートLOマーク・アボットイエローカードで10分間退場。かなり厳しい状況が続く。

 

この時点で2戦合計35-35の完全なイーブン。

入替戦は大接戦といってよかった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

次の1点がどちらに入るか。

Division1への視界が良好になったのがヒートだった。

一人少ないながらも相手ゴール前でチャンスを作るとFWの連続攻撃からLOモスタートのラックで相手ディフェンスを引きつけてからNo.8マテーラがトライ!

飛車角二人の単独突進で逆転に成功する。

200cmのモスタートが身体をかがめて斜めに滑り込むようにして前進する。これもラックのテクニックなのだ。続いてボールを手にしたマテーラは上半身を起こして文字通り相手の壁をぶち抜こうと突っ込む。

ワールドクラスの選手と一言で言ってもゲインするための方法は違う、そこにディフェンスする側の難しさがあったと思う。

 

トライをとってドヤ顔のマテーラ。私も思わず(心の中で)「マテーラァァッッッ!!」と巻き舌で叫ぶ。

 

三重ホンダヒートHPより

 

そのわずか2分後、ヒートは大外でクリーンなターンオーバーに成功し相手BKラインが整わないうちに素早く展開。CTBケラーマンが抜け出してからLOモスタートが受けてそのままゴールに一直線。2人で50m近く走ってトライした!

モスタートのこのようなトライシーンというのを私はこれまで一度も見たことがない。それがこの大一番で出た。このようなところが素晴らしい選手の所以なのだ。

22-14。ヒートはこれでだいぶ、安全圏に来たといってよかった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

その後ワントライ返されるも後半35分にヒートが追加点。

相手ゴール前でヒートFWがラック周辺を攻める。先のシーンがあったので近鉄としてはモスタートとマテーラに最大級の警戒をせざるをえなかった。人数的余りを作り出したところで最後はCTB岡野喬吾がグランディングした。

 

試合を決める、つまりは残留を決める決定的なトライだった。

「オカノーーーー!!」

と思わず私は叫んでいたが私が人生で「オカノーーーー!!」と叫んだのは1997年W杯アジア最終予選vsイラン戦の延長後半、“野人”岡野雅行ゴールデンゴールを決めて日本が初めてサッカーW杯出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」のテレビ観戦(当時小学6年生)以来だった、と思われる。

 

三重ホンダヒートHPより

 

第1戦ではゴール前5mでノッコンという痛恨のミスを犯したルーキー岡野選手。

この場面はラック周辺の駒を厚くすればいける(トライできる)と、CTBとしてのすばらしい状況判断があった。

これで勝負あり、29-19でヒートが勝利した。2戦とも大接戦で残留を決めた。

 

三重ホンダヒートHPより

 

近鉄はSOクーパーとSHゲニアが退団することが決まっており、このワールドラグビー史に残るHB団は本試合が見納めだった。

ヒートを応援したとはいえ私はチームとしての近鉄が好きだしまた2人は私の大好きな選手なので寂しい。2019年、当時2部のこのチームにやって来たのは世界のラグビー界の大きなニュースだった。

クーパーは同チーム所属からワラビーズ(豪州代表)に復帰したHistoric Returnがあった。ゲニアは個人的な思い出としていっしょに写真を撮ってもらった。(Ep.98参照)

クーパーは現役引退の可能性もあるとのこと。2人の今後の活躍を期待したい。

 

SOクウェイド・クーパー(左)、SHウィル・ゲニア The west Australian HPより

 

向井昭吾監督も退任する。私が初めて見たラグビーW杯は2003年大会で、このときの日本代表の監督が向井さんだった(私が高校3年生のとき)。

そしてこのときのジャパンのメンバーが私は好きだった。

バックスリーが大畑大介小野澤宏時栗原徹で、サードロウが箕内拓郎伊藤剛臣、大久保直弥。(Ep.30参照)

今振り返ってもなんて魅力的な6人だっただろうか。BKとFWの花形ポジションで、こんなにも心躍る6人を揃えたジャパンを他に知らない。

W杯では勝てなかった。けれどこのメンバーが、当時の日本ラグビー界の真のベストだった。

もう20年以上前。この国のラグビーを巡る状況は劇的に変わったけれど、今でも第一線で監督業をされている向井監督に頭がさがる。

 

向井昭吾監督 共同通信より

 

花園近鉄ライナーズの乾坤一擲の勝負をかろうじて退けた三重ホンダヒート

鈴鹿をホームとする最後の来25-26シーズンをDivision2で過ごすという暗黒は回避した。

戦力補強により来シーズンは実力の絶対値は高くなるのだろうが他チームと比して強くならなければ意味がない。はらはらする入替戦にまわることだけは回避してもらいたいと思うのだった。

 

三重ホンダヒートHPより

 

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Rugby Mie Honda HEAT “As Switch Division’s Match of Division1/2 in 24-25 season”

Ep.259

Mie Honda HEAT went to Switch Division’s Match of Division1/2, because of their 11th place of Division1 in this 24-25 Regular season.

Their opponents were Hanazono Kintetsu Lineres, as 2nd place of Division2.

HEAT won 29-25 as 1st match and 29-19 as 2nd one, therefore they achieved remaining Division 1.

For the next season, I wish that HEAT has a breakthrough season.

 

www.honda-heat.jp

www.honda-heat.jp

hanazono-liners.jp

hanazono-liners.jp

 

玉井清太郎&玉井藤一郎 “日本のライト兄弟”と呼ばれて

Ep.258

私は黒柳徹子さんのファンなので徹子さんが書いたエッセーはすべて読んでいる。

自叙伝『トットチャンネル』(2016年,新潮文庫)では、NHKの専属女優から“個性派女優”になるまでが記されているが、この中に私が大好きなシーンがある。

 

トットチャンネル』(2016年,新潮文庫)

 

ラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」が大ヒットして熊本のNHKに呼ばれたトットちゃん(徹子さん)は、生まれて初めて羽田空港から飛行機に乗ることに。

リンドバーグの時代から、随分たっているけれど、やっぱり、飛行機に娘が乗る

というのはとても珍しく、また危険が伴うということで、パパとママが空港にお見送りに来たのだという(1955年前後のことだろう)。

とりわけ、パパが見送りに来るなんていうのは後にも先にもなかったという。

そんな両親の心配をよそに、飛行機旅に興味津々のトットちゃん。そして以下のように振り返る。

 

トットが生まれて初めて飛行機に乗って、ずーっと下を見ていて、一番感心したことは、「日本は、地図と同じ形をしている」ということだった地図を作った人は、空から見た訳じゃないのに、よく、あんなに正確に、岬だの、入江だの、島だの、ちゃんと描いたものだ、と感動した

 

これを読んだとき、私は脳天をぶち割られたかのような衝撃を受けた。

私たちは日本の地形を“理解して”はいるが、それは地図や航空写真やGoogle Earthを見ているからであり、実際に、自分の目で、それを知覚したことはないはずだ。

加えて、飛行機に乗って窓から下を見ることはあるが、ずーっと、飛行の最初から最後まで見続ける、なんてことはしないはずだ。

 

やはり自身が興味を抱いた事柄に対する、徹子さんの集中力・観察力と感性は、常人をはるか超えたものであり異次元である。

私が大好きな徹子さんのエピソードの一つだ。

 

トットちゃん(徹子さん) モデルプラスより

 

人類が初めて手にした空を飛ぶ手段は、おそらく気球だ(Ep.83参照)。

だが気球は文字通り「風まかせ」。鉛直方向の操作は可能だが進行方向を正確にコントロールすることはできない。それを果たすためには「動力付きで飛行できる機械」が必要である。飛行機だ。

 

だからその概念は大昔からあったはずだ。

およそ「空を飛ぶ」ことほど多くの昔の人間たちが想像したことはないかも知れない。

人類にとってほとんど夢だったに違いない。

 

人間が想像できることは、人間が必ず実現できる

とはSF作家のジュール・ヴェルヌの言葉だが、情熱や意志といった精神的観点からだけでなく、確かな理論に基づいて「実現できる」と明確に捉えた者たちがいたからこそ、私たちは飛行機を得ることができたのだ。

 

徹子さんが感動した「旅客機」の時代の30年前、大西洋を初めて飛行機で横断したチャールズ・リンドバーグの時代から20年前、アメリカのライト兄弟(Wilbur Wright & Orville Wright)が初めて動力飛行に成功した。1903年のことである。

 

以降、世界で飛行機制作の黎明期が幕を開けたわけであるが、日本にも、その時代に名を残した偉大な、そして四日市出身の人物がいる。

玉井清太郎(せいたろう,1892年生)玉井藤一郎(とういちろう,1894年生)の兄弟である。

二人は“日本のライト兄弟”と呼ばれた。

 

四日市市立図書館内のパネルより

 

四日市市立図書館の階段の壁には、四日市の歴史や文化、産業、偉人を紹介する小さなパネルが並んでいて、ここに「玉井兄弟」も紹介されている。

このパネルの中の“兄・玉井清太郎”と記された写真を初めて見たとき「このとんでもないイケメンは何者だ!?」と私は仰天したものだった。

 

兄・玉井清太郎

 

だから四日市に越してきてすぐ、図書館に通い始めた私は早くからその存在を知っていた。

だが存在こそ知っていたものの、詳しくは知りえていなかった。そんな「玉井兄弟」だったが、先日(25年3月〜5月)、市立博物館Ep.2159113227参照)にて特別展四日市の生んだ『日本のライト兄弟』玉井兄弟展」が開催されていたので、足を運んでみた。

 

 

 

飛行機製作のスタート

玉井清太郎は1892年、四日市市浜田(現諏訪栄町)生まれ。16歳のとき「竹とんぼを見て空を飛ぶことに興味を持ち」(!?)、以後人生をかけて飛行機の研究をすることとなる。

実家は「製糸器械製造業」を営んでいたので「機械」は身近にあったのだろうが「動力付きの機械」となるとまた別の話であったに違いない。

弟の藤一郎とともに資金集めに苦労しながら、それでも比類なき情熱を持って飛行機製作に取り組み始める。

 

 

 

地元・四日市での公開飛行 → 失敗

1916年8月、清太郎は東京で鉄工場を経営する友野直二とともに「玉井式2号水上機」を製作。地元・四日市での公開飛行に挑む。

「伊勢湾横断飛行」と銘打ち、午起(うまおこし)海岸(現在のJR四日市駅霞ヶ浦緑地公園(Ep.97151参照)の間あたり)に約2万人もの観衆を集めたという。

 

しかしながら「機体が重い」(”期待”も重かったか?..)のと「フロートに水切りステップがなかった」ために水面から離れることができず、失敗に終わった。

 

観客は入場料を払ったとのこと。

失敗に対し「馬鹿野郎金返せ!」と小汚いヤジもあるいはあったかもしれない。清太郎が悔しい思いをしたであろうことは想像に難くない。

 

 

初飛行

同じく1916年の10月、「玉井式3号機」によりついに初飛行に成功。距離にして約500m。場所は東京の羽田であった。

 

 

 

日本飛行学校の設立

他方で飛行家の養成も重要と考え、1916年、羽田に日本飛行学校と日本飛行機製作所を設立。10人ほどの生徒が集まり、この中には円谷英二ゴジラウルトラマンを生み出した“特撮の神様”)もいたとのこと。

 

結果を残すだけでなく、後進も育てる。

「人を残すは一流」とは言うが、それを地で行く行動だった。

 

そして清太郎たちがこの地に飛行学校を設立したことが、後に東京国際空港羽田空港)ができるきっかけになったことは考えるまでもないだろう。

 

玉井清太郎

 

3度目の飛行において墜落、死去

1917年5月20日、清太郎は新聞記者を同乗させて3度目の飛行を実施。しかし翼が折れ、上空30m付近から墜落して二人とも亡くなった。清太郎は26歳だった。

 

事故と葬儀の様子

 

藤一郎による地元・四日市での飛行 → 成功

弟・玉井藤一郎

 

弟・藤一郎は兄との別れの後も飛行機制作と飛行家養成を続けていた(名前は照高に改称)。

「青鳥(せいちょう)号」で京都上空の飛行に成功し自信を深めた藤一郎は1919年、兄が実現できなかった地元・四日市での飛行に挑戦する。

 

1度目のチャレンジは8月。しかし「路上の石ころがプロペラを割り、推力不足となって不時着、機体胴体は二つに折れ」て失敗。

2度目は9月。「四日市港沖合でエアーポケットに入って降下してしまい不時着」、失敗。

そして3度目の10月9日、ついに飛行に成功する。

浜田、常磐、河原田、富田浜、坂部の上空を25分間に渡って飛行したのだという。

 

四日市在住の方なら上記地名を見ただけでピンと理解できるかもしれない。これらの距離感・位置感や地理も理解できるだろう。

藤一郎にとって勝手知ったる故郷のはずだが、それでも「初めて空から見下ろす」ことでどのような感想を抱いただろうか?

 

四日市の中心街に近い浜田の街並み。常磐の丘や林。河原田の田園風景。伊勢湾に面する富田浜と山林が広がる坂部。

このときから約40年後、旅客機の時代が訪れ、徹子さんが「日本は地図と同じ形をしている」ことに気付いたように。「四日市は地図と同じ」だと思っただろうか?

 

いやあるいは、万感の想いと共に涙が溢れて視界が滲み、それどころではなかっただろうか?

自作の飛行機でついに飛んだのだ。兄・清太郎が叶えられなかった夢も叶えた。「玉井兄弟としての勝利」なのだ。

などとつい色々想像してしまう。

 

兄・玉井清太郎

 

その後も藤一郎は飛行機制作と後進の育成に励む。1921年には羽田に「玉井飛行場」を創設。飛行家を養成するも1923年に起こった関東大震災で被災したのを機に飛行家を引退した。

引退後は船のエンジン修理などをしたという。1978年、83歳で没した。26歳で亡くなった兄とはこの世で過ごした時間の長さこそ対照的だが、兄と同様、飛行機制作への比類なき情熱を持ち、後進の育成にも励んだ人生だった。

 

今から100年前、四日市から大空へ飛んだ玉井清太郎、玉井藤一郎の兄弟。

郷土が誇る偉大な兄弟に思いを馳せた。

 

 

参考文献)

『よんぶん 2020年3月号 日本のライト兄弟 大空をめざして』

 

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Tamai Seitaro & Tamai Tohichiro, “Wright Brothers in Japan”

Ep.258

Yokkaich born and raised brothers, Tamai Seitaro(1892-1917) and Toichiro(1894-1978) were an aviator of the early stage of airplane  that human being  had made an effort to make as “flying sky machine”.

Older brother Seitaro produced some their original airplanes with their great passion, but in 1917, unfortunately he had a plane crush and died(26 years old).

Toichiro worked in the same way as his brother and was succeeded in doing test flying on their homeland, Yokkiachi with his airplane.  This was one of the Seitaro’s dream that he was not able to come true.

This brother also  made next generation educate and train to establish a school of flying airplane for aviator.  It was an outstanding achievement of the history of Japan.

 

www.chunichi.co.jp

www.isenp.co.jp

 

天正伊賀の乱

Ep.257

戦国時代、特定の大名(統治者)を持たず、国衆(守護大名の領地に土着していた地侍や有力農民)たちの共和政が敷かれていたことで「500年間、戦がなかった」とされる伊賀国

そんな“独立自治”の気概を持つ伊賀の地侍たちと、天下統一を目指す織田家が激突。伊賀とはまた「忍者」発祥の地でもあるから、その戦は激しいものとなった。

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)」である。

 

キーワードだけ見ると大変興味をそそられ、深く知ろうと思ったこともあるがそのきっかけがなかったこの戦であるが、それは小説でもいいんだな、と思ったのは蒲生氏郷の回からだった(Ep.252参照)。

というわけで天正伊賀の乱を題材にした小説を読んでみよう。

 

忍者オフィシャルサイト(伊賀流忍者観光推進協議会)より

 

<小説『忍びの国(和田竜、2008年)

和田竜著『忍びの国』(新潮社、2008年)

 

最初に手にしたのは『忍びの国』。作者の和田竜さんは『のぼうの城』(2007年)、『村上海賊の娘』(2013年)という話題作を10年前に放って注目された。

私もこれらの作品を当時読んだ。けれど正直に言うとおもしろくなかった。

なので『忍びの国』もおもしろくはなさそうだな..と思ったのだが、果たしてやっぱりおもしろくなかった。

 

主人公は伊賀の地侍かつ忍者である無門(むもん)。同作は要は忍術・忍法ものであり、登場人物(の伊賀忍者)たちが尋常じゃない運動能力と戦闘力を駆使する。別にそれはよいのだが、なぜ無門はあんなに強いのか、納得できないし理屈も通らない。

凡人(ザコ)の足軽たちは簡単に倒される。まさに一騎当千、というより“一騎当万”とも言えるもので「それじゃ無門ひとりで一万人を越す織田の兵たちを全員倒せるじゃん」と思ってしまう。こんなのはフェアじゃない。

 

それでも当該出来事について読んだ最初の作品だったので、当時の伊賀国の風土、そこに住む人間たちの気質(フィクション入っているが)、そして彼らと戦った織田信雄(のぶかつ。信長の次男。Ep.182参照)側の主要武将について知れたのはよかった。

 

 

<映画『忍びの国(2017年)

映画『忍びの国』(2017年)

 

同作は2017年、映画された。主演は嵐の大野くんだ。映像化されてもおもしろくなかったというのが正直なところだが、大野くん、石原さとみ(無門の妻・おくに)、鈴木亮平(平兵衛)、知念侑李(織田信雄)がいい。

 

織田信雄の家臣一同が心を一つにして伊賀攻めを決意するシーンもいい。

一般的に無能とされる信長の次男・信雄。作中でも彼の家臣たちは、主君・信雄の人望ではなくその父・信長の存在がゆえに付き従っており、信頼しておらず愛想を尽かしている。

そんな家臣たちを前に信雄が「お主らは何をやっても勝てない偉大な父を持ったことがあるか? 儂の気持ちが分かるか?」と涙ながらに心情を吐く。

これを機に家臣一同が「こいつのためにやってやろう」となるのだが、このシーンが強い印象を残す。

 

このようなことはあり得ただろうな、と思う。後世において、信雄がダメ息子とされる最も大きな理由の一つが、この(第一次)天正伊賀の乱における惨敗なのだ。この失態がなければ彼の評価はどうなっていたかわからないし、偉大なる父の存在に苦しみ葛藤する息子、という側面にもっと光があたって同情が寄せられていたかもしれない。本作は、それに気付かせてくれた。そこに価値があると思う。

 

映画『忍びの国』 WOWOWプラスより

 

<小説『焔ノ地(ほむらのち)天正伊賀之乱』(結城充考、2022年)

結城充考著『焔ノ地(ほむらのち)天正伊賀之乱』(光文社、2022年)

 

続いて読んだ『焔ノ地』も伊賀側の若者を主人公にすえる作品。

しかし冒頭から惹き込まれるものに乏しい。人物造形もストーリーもなんだか中途半端だ。そう考えたとき、先の『忍びの国』のようにエンタメの旗色を鮮明にするのは優れた手法なのだとの理解に思い至る。

 

 

<小説『山河果てるとも 天正伊賀悲雲録』(伊東潤、2008年)

伊東潤著『山河果てるとも 天正伊賀悲雲録』(角川文庫、2012年)

 

3作目にして満を持して読んだのが伊東潤著『山河果てるとも』。私はこの著者の作品を過去にいくつか読んだことがあり(Ep.109参照)、すべておもしろかったのでこの作品もおもしろいかな、と思ったら果たして、やっぱりおもしろかった。最高である。

 

伊東先生の作家としての力量というのは別格でそこら辺にいる小説家とは根本的に異なる。芸術の世界ですごいと思うのは、このような才能を持った人が突然現れるということだ。徐々に実力を身につけて、ではなく“いきなり”出てくるのだ。歴史小説家としては他に今村将吾氏もそうだ(Ep.252参照))

 

伊東潤氏 産経新聞より

 

『山河果てるとも』も伊賀の若者4人が主人公。この中には実在の人物もいるようだが、資料に乏しいため創造の翼を広げて人物像を設定しているようだ。

織田家という最大最強の敵による侵攻が迫る中、地元民の彼らがどう対峙するか?

オーソドックスなあらすじながら、伊東先生の手にかかれば史実とエンタメを調和させた深い物語が展開される。

 

南宮山山頂からは、伊賀中心部が一望できる。北には、柘植川の流れを隔て雨請山が望め、南を見れば、眼下に広がる上野平野の先に神戸丸明さらに名張の山々が連なっている。西に目を転ずれば、大海原に浮かぶ島のように比自山が屹立し、その彼方には、近江や大和の連山が霞んでいた

 

上は左衛門と小源太による南宮山(なんぐうさん)・敢国(あえくに)神社での会話だが、このようなシーン一つとっても、固有名詞を出して実在の風景を描写するのは、歴史書を読み込み現地に足を運び、なおかつ優れた観察力と感性がなければできないことだ。

地元の人間だって、このように正確に描写することはできないはずだ(伊東潤さんの出身は横浜)。本当にすごい。

 

ちなみにこの南宮山は史実でも、伊賀平定がほぼ成った際に信長が戦場視察にこの地を訪れたと伝わる。

 

敢国神社 伊賀タウン情報YOUより

 

織田家による伊賀攻めが佳境を迎える場面、その描写はとてつもなく酷く、痛切で不条理だ。「〜の乱」とは、力のない者(弱者)が強者と対決したことを、強者の立場から言い表した表現であるが、言い換えると強者による侵略・虐殺であった。

本作では「五百年不乱」の国における人・土地・モノが織田家により滅茶苦茶に破壊されるという、当該出来事の最も根本的な事実を他のどの作品よりも伝える。

 

そして先の2作品のように“単純化”していない。同じ伊賀国でも“地域差”を出しているのだ。

同作では伊賀北西部の島ヶ原(実在)という地域出身の人物が物語を動かすのだが、「伊賀」と一言で表しても歴史や出自が異なり、それに伴い織田家に対するスタンスも変わったはず。

事実、北伊賀(現在の伊賀市)は六角氏の勢力が及び隣接する甲賀とも密接である一方、南伊賀(現在の名張市)は大和国(奈良)や北畠氏(Ep.94参照)との関係が深かったという。

さすがのリアル感だ。

 

それでもラストは希望と明るい未来を提示させる読後感が心地良いものに着地させている。(もちろんこのようなラストもセオリー通りなのだが伊東先生の力により爽快感は高い)

天正伊賀の乱を扱う作品を見てきたが、本作『山河果てるとも』でお腹いっぱいになった。

 

第一次天正伊賀の乱 忍者オフィシャルサイト(伊賀流忍者観光推進協議会)より

第二次天正伊賀の乱 忍者オフィシャルサイト(伊賀流忍者観光推進協議会)より

 

最後に天正伊賀の乱の概観を記したい。

・1579年(第一次)と1581年(第二次)

・旧伊賀国とは現在の三重県伊賀市名張市で面積は700km2ほど

・伊賀の国衆vs織田家。ただし信長は参戦していない。織田家とはこのとき伊勢国を支配していた織田信雄(信長の次男)のこと

・第一次天正伊賀の乱は伊賀側の大勝利。第二次は満を持して臨んだ織田側が勝利。このときの織田側の総大将は信雄。参戦した織田家重臣滝川一益Ep.208参照)、丹羽長秀蒲生氏郷Ep.252参照)など

・これにより伊賀は陥落。老若男女問わず殺戮され、城館は破却、神社仏閣は焼き討ちされるという殲滅戦

 

忍びの者(イメージ) 観光三重HPより

 

山々に囲まれた伊賀は天然の要塞とも言え、京や大阪の近隣ながらも人とモノの大量の流出入が制限される地だった

・当時の伊賀は、実質的な守護大名が不在で66の国衆が均衡を保ちながら連合支配をおこなっていた。800以上という異常に多い中世城館があった

・国衆同士の小競り合いはあったようだが、いざ”外敵”に侵略されそうな際は一体となって戦う同盟があった

・かかる状況下で「忍びの技」に秀でる者(忍者)が現れた

 

このような環境と状況というのは現代の小説家をゾクゾク刺激して創作へと向かわせるのだろうと思った。

 

伊賀上野城

 

天正伊賀の乱を現代に伝える「場所」という点では乏しい。

けれどその一つが、伊賀上野城Ep.0参照)であることは、おそらくあまり知られていない。

伊賀上野城が建つ前、ここには平楽寺(へいらくじ)という大きなお寺があった。伊賀国衆たちの拠点でもあり、戦闘の舞台にもなった。

 

現在の伊賀市の最大の名所は、天正伊賀の乱の悲惨・悲運を静かに伝える。

 

参考文献)

和田裕弘天正伊賀の乱-信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(2021年、中公新書)

・高橋成計『織田信長の伊賀侵攻と伊賀衆の城館』(2021年、アメージング出版)

伊東潤『山河果てるとも 天正伊賀悲雲録』(2012年、角川文庫)

・和田竜『忍びの国』(2008年、新潮社)

結城充考『焔ノ地(ほむらのち)天正伊賀之乱』(2022、光文社)

 

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Tensho Iga War

Ep.257

Tensho Iga War (天正伊賀の乱 AD1579, 1581)was the resistance war that local samurai warriors in Iga that did not have an any lord fought against Oda Nobunaga’s army (but Nobunaga did not join it).

As a result, Oda won and was succeeded in being under control there though, the resistance of  Iga was quite intense one and let Oda do devastating damage.

It is said that Iga is a birthplace of ninja, therefore several entertainment genre’s of novels have been created nowdays regarding to  this war.

 

www.ninja-museum.com

 www.iga-younet.co.jp

 

www.igaueno.net

 

まぐろレストランなど

Ep.256

三重県を南北に走る交通上の大動脈「国道23号線名四国道)」沿いにある「まぐろレストラン」。

その名の通りマグロを使った料理を提供する大型飲食店である。大面積の駐車場、及び場所柄からトラック運転手をターゲットにしていることは明らかだ。

 

まぐろレストラン 観光三重HPより

 

ただ店内には一般客も多くいて混雑している。大人気だ。私も訪れたことがあるが学食のようだと思った。

 

観光三重HPより

観光三重HPより

観光三重HPより

 

肝心の料理について「ほんとに美味しいのかな?」と懐疑的に思っていたら、やはり美味しくなかったというのが正直なところ。

にもかかわらずこの混雑はなぜだ?

交通量の多い幹線道路沿いにあるとはいえ一見さんだけ(観光客だけ)でこんなに混みはしないので地元のリピーターがいるはずだ。不思議な施設である。

 

そもそもなぜ「四日市でマグロ」なのか?

四日市で漁港は今やない。この街の「港」とは、コンテナを扱う貿易港である(Ep.19212等参照)。

マグロとしては志摩まで行けば「てこね寿司」(Ep.250参照)があるが四日市にそのイメージはない。

 

「うみてらす14」からの景色

 

まぐろレストランを運営するダイエンフーズによると

1960年代から70年代頃にかけてこの四日市市には、まぐろの遠洋漁業の基地がありました。当初は、遠洋漁業で捕ってきたまぐろを水揚げする期間の漁師さんたちの宿泊施設・食堂として始まり、長い航海で疲れた漁師さん達の体を癒し、胃袋を満たしてきました

 

とあった。

なるほど昔はここでマグロが水揚げされていたのだ。60〜70年代というと高度経済成長に伴う公害問題(Ep.21119227等参照)もあったから、片やマグロ、片や公害、だったということになる。

 

ということで歴史的背景は理解できたものの、それでもマグロを売りにして成功したのはすごい、と私は思う。

HPによるとなんと25年4月には「まぐろレストラン二号店」が愛知県稲沢市にオープンしたのだという。絶好調だ。

 

ひもの食堂 HPより

 

まぐろレストランの向かいには「ひもの食堂」がある。文字通り干物が食べられる食堂である。

こちらには私は訪れたことがない。けれどHPによると干物の品揃えは多いようで興味深い。

親戚が静岡の伊東市に住んでいるので当地の干物屋(観光地にあるような干物屋ではなくその地区の人々に愛される昔ながらの小さなお店)を訪れたことがある。そこの干物は本当に美味しい。美味しい干物は本当に美味しいのだ。スーパーに置いてある干物、あれはパチモノなのだと理解した経験だった。

 

ひもの食堂 HPより

 

ひもの食堂のHPによると

昭和11年に現社長の祖父である鈴木伊右ェ門が立ち上げた煮干しの製造販売業」がルーツで「富田一色町弁天町の小さな加工場で妻のかづゑが作業し、伊右ェ門が自転車で行商する。真面目で地道な商いを続けるうちに「うまい煮干しなら弁天町の伊右ェ門」の名が伝わり、お取引先を増やしていきました

とある。こちらはまぐろレストラン以上に歴史が長いようだ。

 

えびすセンター

 

もし四日市でマグロが食べたいのであれば、私だったら「えびすセンター」を勧める。

近鉄四日市駅前の諏訪商店街にある海産居酒屋である。

「一度も冷凍していない本マグロ」だけを提供しているのだという。

 

本マグロ

 

他にもアワビの天ぷらのような珍しいメニューもあった。ランチもやっているが、私が訪れた昼間にはビールを飲んでる人が多数だった。

 

アワビの天ぷら

 

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The Magro Restaurant (Tuna Restaurant) etc.

Ep.256

The Magro Restaurant is located in Route 23, Yokkaichi specialized Tuna cooking and it is crowded every weekend.

On the other hand, this has told us the old time in Yokkaichi that had a base for pelagic fisheries (tuna fishing in Pacific ocean).

 

www.maguro-restaurant.co.jp

www.kankomie.or.jp

himono-syokudo.com

tabelog.com

 

三重県と音楽 西野カナ 編

Ep.255

90年代のJ-pop界は「歌姫」たちの時代だった。

ご存知だろうか?

浜崎あゆみ宇多田ヒカル椎名林檎aikoMISIAは、みな1998年デビュー組だ。

 

デビューから四半世紀が過ぎたがいまだにこの人たちがJ-popの頂点に君臨し続けている。

消えることもなく、沈むこともなく、ずっと、ずーーーっっと第一線で活躍・活動し続けている。

 

J-pop史上最大・最大の歌姫 浜崎あゆみ

もう誰も”ヒッキー”とは呼ばない 宇多田ヒカル

今も当時も”唯一絶対”の歌姫 椎名林檎

 

加えて安室奈美恵は(ソロデビューが)1997年、倉木麻衣は1999年デビューだ。

安室は引退したが倉木麻衣はずっと第一線にいる。

 

90年代末にデビューした、この偉大な浜崎・宇多田・林檎・aikoMISIA・倉木の6人を、“ビッグ6”と密かに私は名付けているのだが不思議なことに彼女たちを一括りで表す表現は世にない。

 

ラブソングをひたすら歌い続ける aiko

最初期はヴィジュアルが明らかでなくミステリアスな存在でもあったが近年は紅白歌合戦のトリが指定席となった”国民的歌手” MISIA

Love, Day After Tomorrow』『Stay by my side』『Secret of my heart』のデビューからの3連続シングルは完璧すぎた 倉木麻衣

 

この6人は、不思議なことに共演が一度もない。

27年間も第一線で活躍し続けて(大型音楽番組で共に出演することは頻発している)、デビュー同期でもあるのだから、友人になったり仕事を一緒にしたり、ということになってもおかしくなさそうなものだが。

 

といっても「J-pop」という括りが便利だから私たちはよく用いてしまうが、彼女たちの音楽性やありたいアーティスト像は各々かなり異なるわけだし、棲み分けという意識も働いて共演には慎重なのかもしれない。

(強いて言うならデビュー初期にレコード会社関係者向けのイベントで宇多田ヒカル椎名林檎がデュエットしたこと、及び2014年に浜崎あゆみが宇多田の『Movin' on without you』をカバーしたことくらいだと思う)

 

私はこれと対照的にアメリカの音楽界を考えることがある。

1998年、当時人気絶頂だったホイットニー・ヒューストンマライア・キャリーが共演(デュエット)した出来事である。

『When You Believe』という曲で、アニメ映画「プリンス・オブ・エジプト」の曲なのだが、ご存知だろうか?

 

Whitney Houston & Mariah Carey

 

当時は洋楽に詳しくなかったが、それでも1998年当時、ホイットニーとマライアがデュエットするというのは、天地がひっくり返るほどの衝撃的な出来事だったと思う。

 

1999年に浜崎あゆみ宇多田ヒカルはデュエットしなかった。

2024年にテイラー・スイフトビヨンセはデュエットしなかった

当然だ。普通に考えてメリットよりもリスクの方が大きそうだ。でも、98年に”それ”は実現したのだ。

 

加えて『When You Believe』という曲自体も高尚で崇高な名曲だ。

There can be miracles When you believe 奇跡は起こる あなたが信じる時に

と謳うバラードである。

映画「プリンス・オブ・エジプト」はユダヤ人の出エジプトを描くという、アメリカのアニメーション映画としては珍しく壮大な作品であり、これに箔を付けている。

 

何から何まで信じられない作品で、ホイットニーとマライアがデュエットすること自体が奇跡なのだが、それが”実現できる”と信じる人たちがいたから、本作が生まれたのだ。

二人が共演するPVをYoutubeで今見ると、当時の空気と二人の輝きが冷凍保存されているみたいで、ため息が出る。

世界のポピュラーミュージック史の中でも特別な二人を、最も旬な時期に共演させる、実現させる。それがアメリカエンタメ界の凄さ、底力だと思うのだった。

 

『When You Believe』(1998年)

 

「90年代に(ソロ)デビューした日本のポップスの女性歌手」を他にも挙げてみよう。

華原朋美ZARD坂井泉水)、Cocco川本真琴鈴木あみ相川七瀬大黒摩季、hitomi、tohko広瀬香美小松未歩工藤静香松たか子

 

ついでにバンド形式の女性ヴォーカルも挙げると、

Dreams Come True吉田美和)、Every Little Thing持田香織)、JUDY AND MARYYUKI)、My Little Loverakko)、The Brilliant Green川瀬智子)、globe(KEIKO) 、TRF(YU-KI)、MAX、SPEED、モーニング娘。..

 

錚々たる面々であり常軌を逸した層の厚さだ。

私は1998年が中学1年生だったので、リアルタイムでこの人たちの歌を聴いてきたからピンとくる。

以前にも書いたけれど、私は高校生のとき片道13kmの距離を毎日自転車で通勤していた。45分程度かかるこの時間は音楽アルバム1枚分におおよそ相当するので、私はたいてい90年代のJ-popの歌手たちのアルバムをMDで聴いていた。

上で挙げた人たちのアルバムも実によく聴いたものだったEp.157参照。危険なので現在は音楽を聴きながらチャリを漕ぐことはない)

 

90年代はCDが売れに売れた時代だった。

ミリオンセラーが連発され、時にダブルミリオンやトリプルミリオンなるものも出た。

日本の人口が1億2千万人だとして、ミリオンだとおおよそ100人に一人が買っていることになる。

 

「今日の「ミュージックステーション」には○○が出る」

「昨日の「うたばん」、△△が出ておもしろかった」

学校でクラスの話題は常に民放の音楽番組だった。そういう時代だった。

 

総括すると90年代の音楽界とは小室哲哉(左)の時代だった

 

では2000年代はどうだろうか?

00年代は、テレビで露出してCDを売る(同年代後半になるとダウンロードも)という90年代の続きではあったが、もうCDが売れなくなってきていた。

これが2010年代になると、YouTubeスマホ・ストリーミングサービスの登場により音楽業界は様変わりするので、00〜09年は過渡期と言える。

 

2000年代にデビューした女性ポップス歌手を挙げてみる。

鬼束ちひろ中島美嘉平原綾香倖田來未YUI、綾香、大塚愛木村カエラ西野カナ加藤ミリヤ一青窈青山テルマ矢井田瞳

 

これらの人たちのほとんどは現在の音楽界で見ない。いなくなってしまった

加えて“格下感”は否めないが、90年代組が比較対象だとそれはしょうがないと思う。

例えば倖田來未など、私が学部生だった05〜07年あたりはそれはもうすごい露出だったが、今は見ない。

00年デビュー組の女性歌手たちの音楽を、私はあまり聴いてこなかった。もう高校生から大学生になっていたし、年齢・性別的なものもあるだろうが、要は魅力が劣るのだ。90年代デビュー組に比べて(ただし鬼束ちひろ加藤ミリヤは好きだ)

 

西野カナ 2010年頃 音楽ナタリーより

 

そんな00年代デビュー組を代表する一人が西野カナである。1989年生まれ、三重県松阪市出身の女性ポップス歌手で、2008年にデビューした。

 

2010年〜16年あたりにかけてティーン女性を中心に大人気だった。

職場の後輩(津市出身)によると、当時学校の先生が有名になる前の彼女をしきりに推していたとのことだった。すると本当にブレイクしたのでとても驚いたのだと。

当時、津駅のホームで西野カナをたまに見かけたとも言っていたが、名古屋に行っていたのだと思う(来歴を見ると名古屋市内の大学に通ったとあった)。

紅白歌合戦にも9年連続出場。『トリセツ』などの代表曲を持ち、2019年に活動休止した。

 

2010年頃 ORICON NEWSより

 

私自身は西野カナをたくさん聴いてきたとは言えないが、最もおぼえているのは2013年に大学時代からの友人と3人でお盆休みに北陸をドライブ旅行していたときのこと。私のiPod(懐かしい!)を物色していた友人が、車内に西野カナを流し始めた。

当時のiPodスマホと連携していない独立型のものだし世の中にストリーミングサービスもなかったので、TSUTAYAでアルバムを借り、いいと思った曲を少し入れていたのだ。

『会いたくて 会いたくて』『Esperanza』『if』(みな2010,11年の曲)の3曲くらいだったと思う。

 

友人は『Esperanza』を聴き終えた後、すぐに再び『Esperanza』を流し始めた。

「なんでまた『Esperanza』かけてんだよ?」

と私が言ったら彼はニヤニヤしていたっけ。良い曲だと思ったのだろう。

ちなみに「Esperanza」とはスペイン語で「希望」の意味。しかも夏を舞台にしたサマーソングだ。

状況と季節柄、妙にマッチしていた。

 

2018年頃 ロッキンオンより

 

ただこうして思い返すと、私は世代の割に彼女の音楽を聴いていたんだなと思わなくもない。それに特別彼女のファンというわけではなかったので、iPodに入れていたのは純粋に「楽曲がいい!」、と思ったからだ。私は彼女の音楽が実は好きなのかもしれない。

 

2019年頃 grapeより

 

2019年に活動休止を発表して結婚・出産をされたようだ。このまま復帰はしないのだろうな、と私は思っていた。

というのも、例えば代表曲『トリセツ』(2016年)は、交際相手として自分を選んでくれた恋人に対して自身の“取扱説明書”を伝授するという歌詞世界だ。

ずっと正しく優しく扱ってね」「急に不機嫌になることがあります

などと歌うが、これは“若くて(カワイイ)女子”しか通用しない話だろう。

 

ずっと若い女性目線でのラブソングを歌い続けてきた。自身が30歳を迎え、ティーンに支持共感されるような年齢でも状況でもなくなってきた。意地悪な言い方をすると今後もこの路線で売れ続けるのは難しいだろう、と思った。

 

であるがゆえに2024年6月、5年ぶりに活動再開が発表されたことは大きな話題になった。

加えてビジュアルが金髪のギャルメイクではなく黒髪でナチュラルな装いに! 世間も私も驚いた。当時のギャルっぽい装いは事務所の戦略だったのか、本人の意向だったのか。

金髪とメイクを改めたら、実はすごい美人な人だったんだな、と私は思った。当時と、顔が全然違うじゃないか..

 

2024年6月 KAI-YOUより

 

「私は西野カナ世代なのでとっても楽しみです」

司会の伊藤沙莉に紹介されてピンクのボリューム感たっぷりの衣装で登場。2024年末のNHK紅白歌合戦だ。

同年秋に発売した新曲『EYES ON YOU』を歌った。

 

ちなみに私は紅白歌合戦の(自称)批評家で、2007年から欠かさず録画して毎年真剣に観ている(批評している)。今では一年間で唯一観る音楽番組が紅白だ。だから一層真剣に観る。でないと日本のポピュラーミュージックについていけなくなるためだ。時代は90年代とは違うのだ。

紅白で久しぶりの出場者というのはえてして「ヒット曲メドレー」を披露する傾向がある。

けれど西野カナは実質的に先述の一曲だけを歌った。これがとても良かった。復帰後の新曲で勝負し、かつ純粋に”歌”を聴かせきった。出場者の中でもトップクラスのパフォーマンスだったことは間違いない。

 

2024年紅白歌合戦 日刊スポーツより

 

今回を機に、私は西野カナの全てのアルバムをApple Musicで聴いてみた。

Esperanza』以外にも耳に残るいいメロディの曲がたくさんあったので「Best 西野カナ」プレイリストも作ってみた。

 

今後もaikoのようにひたすら恋愛の歌を創り続けるのか。あるいは普遍なテーマに広げていくのだろうか。

そして彼女の活躍が他の00年代デビュー組復活の呼び水になるのか。注目している。

 

 

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Nishino Kana

Ep.255

西野カナ Nishino Kana, who is a J-pop singer song writer from Matsusaka city, Mie.

Especially around 2010-2016, it was the prime period for this 1989 born diva.  Lots of hit songs gained a huge following among teenage girls and made Nishino be a one of the most popular female singer in that time.

Since 2019, she had done suspension of activities, because of her marriage and childbirth.  But at last 2024, she has re-started her music career.

 

 

www.nishinokana.com

whitney3d.com

www.youtube.com

www.youtube.com

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www.youtube.com

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ラグビー 三重ホンダヒート vs トヨタヴェルブリッツ 編

Ep.254

ワールドラグビー史上最高・最強のSH(スクラムハーフ)は誰か?

という問いがあったなら、

「2015年のアーロン・スミス」とする以外の答えを私は知らない。

 

オールブラックス通算124caps。15年、19年、23年W杯に1st choiceのSHとして出場。15年は優勝に導いた。

23-24シーズンからトヨタヴェルブリッツに所属している。

 

2015年のアーロン・スミス Aaron Smith Le Figaro紙より

 

史上最高・最強のSHアーロン・スミス

初めてアーロン・スミスの名を知ったのは2015年のW杯前だった。当時のジャパンのSH田中史朗がスーパーラグビーハイランダーズに所属していて「世界最高のSHと称されるNZ代表SHアーロン・スミスとチームメイト」と記事で読んだのだ。

 

15年W杯で連覇を狙う王国。その「世界最高」のSHとは一体どんな選手か? と思ったわけだが、初めてアーロン・スミスのプレイをW杯で見て、一発で確かにこれは“世界最高”だと理解した。

世間の評価に完全に同意した。それは明白なことだった。

 

NZ Herald紙より

 

足は、やたら速い。アジリティ(俊敏性)が高い、動作も速い。ボールを持って走り回ったらすばしっこくて相手は捕まえられない。

肝心のパスも、速い。スピンの効いたスクリューパスは高速で正確にSOの手元に届く。

それに、あたると(相手は)痛そうだ。急所を突くようなイメージは、スピードがあって(SHなので)サイズが小さい彼の特徴と無縁ではない。

なんというか、高性能のハチのようだ。

私はアーロン・“Bee”・スミスと密かにあだ名をつけた。

 

今でもオールブラックス2015」が史上最高・最強チームだと考えている(Ep.195など参照)ので、そのチームでSHを担ったアーロン・スミスは私の中で永遠に輝いている。

 

Otago Daily Times紙より

 

4年後、19年W杯での彼のプレイを見たらそのパフォーマンスが明らかに落ちていて残念だったが、それもしょうがないと思ったものだった。チームは準決勝で敗れ3位だった。

 

けれどアーロン・スミスが凄いのは、更に4年後の23年W杯では15年時のハイパフォーマンスに戻っていたことだ。

大会直前のスプリングボクスとのテストマッチを観てそれを感じた。「アーロン・スミスが全盛期に戻ってる!」と私はとても興奮したものだった(チームは準優勝)。

 

その、史上最高のSHがW杯後に日本のリーグONEにやって来た。それはビッグニュースだった。

 

ハカの先導もしていた NZ Herald紙より

 

現役最高FLピーター・ステフ・デュ・トイ

トヨタにはもう一人スターがいる。ピーター・ステフ・デュ・トイである(Ep.244など参照。ただし今24-25シーズンはケガにより今のところ全休)。

200cmのFL(フランカー)はスプリングボクスを19年、23年W杯連覇に導き同年から日本にやってきた。

 

この人で思い出すのは19年W杯決勝のイングランド戦。試合最終盤、FLシヤ・コリシが相手のノッコンしたボールを拾う。ここでいち早くかけつけたデュ・トイがパスを受ける。

そのまま流れて大外に一人でいたWTBチェスリン・コルビ(Ep.189参照)にきれいなスクリューパスを放る。そして彼のトライ(勝利を決定つける)につなげたシーンだ。

 

なぜここにデュ・トイがいる?!

と私は驚いたものだった。

スラムダンクの陵南戦最終盤のチャンスで絶妙なポジショニングをしていた桜木花道に田岡茂一監督が「なぜそこに桜木がいる?!」と驚愕したように。

 

“チャンスでそこにいる”

それが、いい選手の証なのだ。あの場面のデュ・トイにしても、FLとして70分間もずっとフィールドを駆け抜け、それでもまだ残っていた体力・走力に凄みがあるのだ。

 

4年後の23年W杯でも優勝に導き、しかも翌日、23年のワールドラグビーの世界最優秀選手に選ばれた。名実ともに世界最高のFLとなった。

 

ピーター・ステフ・デュ・トイ Pieter-Steph du Toit Rugby Republicより

 

その後にトヨタ入りが発表された。シーズン開幕を前にしてチームに合流した時期、私はラグビーマガジンを本屋で立ち読みしていた。

デュ・トイのインタビュー記事を読んで驚いた。「トヨタでの目標は?」と問われた彼は、

「チームメイトとの競争を勝ち抜き、まずはスタメンを勝ち取ることです」

と述べていた。

 

現役世界最高の選手でありスーパースターがラグビー一流国とはいえない国のリーグにやってきて最上級に謙虚なコメントをする。それには心を打たれる。

これをサッカーに置き換えて考えてみてほしい。クリスティアーノ・ロナウドネイマールサウジアラビアリーグに移籍し現地誌のインタビューで「まずは試合に出るのが目標です」なんて言うことを。それはあり得ない。お金のためにやってきたとはいえ彼らはケガでもしていない限り試合に出ることが当たり前であり、もし前述のコメントなどしようものならファンやスポンサーから誤解を招きチームの監督やGMには「出さないの?」と山のように質問が届いて暴動も起こるかもしれない。

 

ラグビー選手の謙虚、品位、高潔を示す例だった。彼らはサッカー選手とは大きく異なるのだ。

 

トヨタヴェルブリッツ

 

名と実が相容れないトヨタヴェルブリッツ

昨23-24シーズン開幕前に大型補強を敢行して世界的スターを獲得し優勝争いするだろうと目されたトヨタヴェルブリッツだが、(今季も含めて)惨憺たる結果となっている(昨季は7位、今季は現在10位)。

この低調な結果は外から見ている人間(ファン)からすると不思議で仕方ない。「世界的ビッグネームを集めてなぜこんなに負けてばかりで弱いのか?」と。

 

FWは先述のデュ・トイをはじめ、FLマイケル・フーパー(今季途中より。Ep.192参照)、FL姫野和樹と、第三列は超豪華だ。

BKも先述のアーロン・スミスにSOボーデン・バレット(昨季)、SO松田力也(今季)が加入し、既存戦力でもCTBシオサイア・フィフィタ、WTBヴィラアメ・ツイドラキ、WTB高橋汰地という好選手たちがいる。

挙げ句の果てにヘッドコーチはスティーブ・ハンセンという名将だ(15年W杯のオールブラックス監督)。

 

ティーブ・ハンセンHC Steve Hansen AFPBB NEWSより

 

なぜこんなに弱いのか? 私の考えだと、FWの第一列・第二列の「前5人」が弱いのだと思う。

彼らの実力と働きが他チームの5人よりも劣っているのだろう。でなければ説明がつかない。

この点、埼玉パナソニックワイルドナイツとは対照的だ(Ep.251参照)。

 

トヨタファンも納得できていないはずだからハンセンHCかアーロン・スミスかフーパーのように「どうすれば勝てるか」を知っている百戦錬磨の世界的ラガーメンに「なぜ自分たちは弱いのか?」を説明してほしいなと思う。純粋に不思議だからだ。

 

三重ホンダヒート HPより

 

Japan Rugby League ONE, Dision1の第17節。三重ホンダヒートvsトヨタヴェルブリッツ(25/05/03、鈴鹿)。ヒートにとっては今シーズン、レギュラーシーズンのホーム最終戦である。

トヨタと戦うのは今シーズン2度目。前回は開幕してすぐの第2節、終了間近に逆転して21-17でヒートが激勝した。今回も再現なるか?

 

三重ホンダヒート HPより

 

先制点はトヨタ。追いかける展開となるヒートだが相変わらず点差をイーブンに戻すことはできず、追加点を許していく。

ミスタックルが多い。突破を許す。

ちょっと前だったら「ヒートのディフェンスが弱いから」と断じる私だが、最近は必ずしもその一言で片付けるのは適切でない感じもする。というのも、他チームのハイライトを観ても分かるように、特に今シーズン後半はよそのチームもアタックが凌駕してディフェンスが劣勢のように見受けられるからだ。

 

選手の疲労が蓄積してきてディフェンスが甘くなっているのか、あるいは純粋にフィジカリティの向上がアタック面に有利に働いているのかわからないが、とにかくトライ数が多くなる”大味”な試合が多くなっている。

1トライの差が勝敗を分ける、展開とはほど遠く、相手にトライをたくさん奪われても、とにかくこちらはそれ以上にトライを獲ればいい、そんな感じになっているのだ。

プロ野球でいうと、5点とられても6点以上とればいい、ホームランを数本打たれてもそれを上回るホームラン数を打てばいい。そんな状況なのだ。

 

ヒートの場合、点の取り合いだと分が悪い。自力で劣るチームが勝利を目指す場合、ロースコアゲームに持ち込むことが肝要だからだ。

 

LOマーク・アボット選手 三重ホンダヒート HPより

 

リーグ全体に通じる抗いがたい傾向がヒートにとって不利に働く中、なんとか食いつく。

しかしLOフランコ・モスタートのトライで23-31まで迫った後半22分がそのピークだった。

FBトム・バンクスのトライは後半42分。これでも届かず、30-38で敗れた。

 

今試合、ケガから復帰のFLパブロ・マテーラ選手 三重ホンダヒート HPより

 

これでヒートはレギュラーシーズン残り1節を残して4勝13敗の勝点18で11位(全12チーム中)が確定。つまりはDivision2のチームとの入替戦が決まってしまった。

第 節までに4勝 敗となったときは盛り上がった(参照)もののそれ以降は勝点を積めず。ファンとしてはため息しかない。

そもそもしばらく勝利から遠ざかっているヒート。Division1残留は必須として快勝でのそれを期待する。

 

 

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Rugby Mie Honda HEAT vs Toyota Verblitz

Ep.254

Toyota Verblitz, who is a Japanese top rugby team based on Toyota Motor coroperation, but one of the lower team of Division1 in this season, even though there are many world’s star players, Aron Smith, Michael Hooper, Pieter-Steph du Toit.

Round17 of Division1, Japan Rugby League ONE in 24-25 season, against such club, Mie Honda HEAT lost the match.  As a result, they were confirmed to be in 11th place this season.

It was so disappointment for their fans..

We hope HEAT get “a satisfying victory” in the Switch Division’s Match.

 

www.honda-heat.jp

toyotatimes-sports.toyota

 

美しき県庁所在地・津 天むす編

Ep.253

名古屋メシの一つと思われている「天むす」だが発祥は津だ。

隣県に名古屋という大都市があるせいで強大な吸引力を被られている点は味噌カツEp.236参照)と同じである。

 

天むす 郷土料理ものがたり HPより

 

津市大門にある「千寿」。ここが発祥とされる。

同店のHPによると、1959年当時天ぷら定食のお店を営んでいた際、まかないとして「車エビの天ぷらをおにぎりの中に入れた」ことが始まりとのこと。

常連客への裏メニューとしてふるまわれていたがあまりの評判の良さに「天むす一本で勝負」していくことになったらしい。

 

津市大門の「千寿」

 

そんな同店に転機が訪れたのが1981年。ここに訪れて天むすの味に感動した実業家が暖簾分けを熱望。作り方も伝授してもらい名古屋市内に「千寿」として開店し、これが大評判を読んで名古屋メシとして認識され始めたとのことだ。

 

したがって、

津市の「千寿」が本家本元で発祥

名古屋(大須)の「千寿」がその暖簾分けで、全国に天むすの存在を知らしめた

こととなる。

 

千寿の天むすを求めて津まで赴くのは大変だが、名古屋なら楽に手に入ると思っている人は多い。近鉄名古屋駅改札内売店は場所もよく、私も何度かお土産として買い求めたことがある。

 

津の「千寿」の天むす

 

「えびの天ぷら」とだけ聞くと天ぷら定食や天丼や天ぷらそばに出てくる“立派なやつ”を思い浮かべがちだが、先述のように「車エビ」だから随分小ぶりだ。

加えておむすびも小さい。まかないとしてお腹を満たすというよりおつまみのようだ。

 

けれど千寿の天むすは、私にとってはだいぶしょっぱい。

ここまで塩気を効かせるのは保存性向上のためだろうか?

 

もちろんこの地域(中京圏)では千寿以外でも天むすをよく見かける。上はお弁当屋「伊勢乃」(Ep.138参照)の天むす

 

プレーン天むす

そんな天むすをさっそく作ってみよう!

真っ先に思ったのは「立派なエビ」を使ってやろうということだった。

ということでスーパーに赴く。時期は幸運にも1月上旬。普段、調理していないエビとしてはバナメイエビしか置いてないのに、その日はより大きめのフラワーエビの冷凍品が大量にあった。年末年始の売れ残りだ。

 

フラワーエビ

 

だが無残、不様な結果に終わる。。

「立派なエビの天ぷら」を作るため、もちろん私だってエビの背に切れ目を入れる努力はしたが、油で揚げた後、“ピン”とならず..

それに随分小さくなってしまった。

エビの天ぷらを美しく、ボリューム感たっぷりに作るのは、やっぱり難しい。

 

続いて「おむすび」作り工程に移った。

 

まずは適当量で握ったがご飯の量が多すぎてNG

ご飯は少量で

 

“尻尾をおむすびの外に出し”て握り終える(そうでもしないと中に入ってることがわからない!?)。

 

完成!

 

さっそく食べてみる..

随分味気ない。塩っ気が少ない..。というのも、考えてみれば私はそのままエビの天ぷらを入れたのだった。

滋味深いエビ天そのものの味を感じることはできるかもしれないが。やはりもっと塩気が少し欲しい。

 

ここに至って気付いたことは、世の中のおにぎりの具材というのは皆、塩気があるということだった。

梅干し、昆布、ツナマヨ、鮭..

白飯のおかずなのだから当然だ。

だから千寿の天むすがしょっぱいのも当たり前のことだったのだ。きっと塩を振りかけているのだ。

 

 

俵形“味”たぬき天むす

難易度の高いエビの天ぷらを作るのは断念するとして、私にはもう一つ思い当たるものがあった。

以前「道の駅 関宿」で食べた天むすである。

 

これは「天ぷらの具材」「ご飯の種類」「形状」どれをとっても従来食べてきた、またイメージしてきた天むすとは異なっていたものであり、私は大変驚いた。

 

「道の駅 関宿」の天むす(左)

 

ここで、“たぬき”、とはもちろん天かすのことだ。

確かに、「天むす」の字面だけ見ると「天ぷらが入ったおむすび」のことだからなにもエビの天ぷらに限ったことではないはずだ。

それにご飯だって白飯である必要も、形状も三角である必要なんて考えてみればないのだ。

 

さらに感動したのは、これがとても美味しかったからだ。

天かすは硬さが残りカリッとしていた。

そしてご飯について、実はこれは「味ご飯という三重県北部(北勢エリア)の郷土料理なのだ。

 

亀山市立図書館(Ep.187参照)内の展示

 

「味ご飯」とは要は炊き込みご飯のことだ。

使用具材に係る厳密な定義はなく、その地域ごと、家庭ごとによって変わるようだ(それこそが郷土料理である)。

味ご飯の人気は高く、JAマーケットやアピタのわくわく広場でも販売されているのを見かける。おにぎりの桃太郎(Ep.17参照)でも「あじ」というおにぎりがあり、なんとこれが一番の売れ行きを誇るらしい。

 

味ご飯

「おにぎりの桃太郎」の「あじ

 

道の駅の「俵形味たぬき天むす」は、実は冷たかった。

けれども美味しい。ここで気付いたことだけれど、炊き込みご飯はそれ自体に味や塩気があるので、冷めていても美味しいということだ。

コンビニで見る「鶏五目おにぎり」を考えると納得する。あれは冷たくても美味しい。

 

先述の天かすが“カリッ”としていた、というのも、熱いご飯のおにぎりだと湯気により天かすが水分を吸収してしまうから、あえて冷たい味ご飯で握るという工夫をしていたのかもしれない。

すばらしい。

 

私はこれを自宅で再現してみたくなった。

 

まずは「味ご飯」を用意。土鍋で炊く。にんじん、しめじ入り

広島県民にはお馴染み「オタフク」の天かすを使用

味ご飯→青ネギ→天かす

混ぜる

完成!

 

一つ一つの具材が大きすぎる..

武骨な印象を与え見た目は良くないが完成。

 

俵形“味”たぬき天むす

 

さっそく食べてみる..

うん、なかなかいい感じ。海苔の香りが立ち昇ってすごい。美味しい。

 

作ったうちの2コにはキャンディチーズを入れてみた。

なんでキャンディチーズなんて入れるのか?

と問われると、冷蔵庫にあったからだ。

それに天むすのcrispy感とチーズのsoftly感のコントラストを際立たせたかった。

のだがその意図は儚く不発に終わる。まだ熱いうちに握ったからか、天かすの食感が失われていたのだった(“フニャッ”としてた)。

 

それでも、先入観にとらわれず、天むすの可能性を拓いた「俵形味たぬき天むす」だった。

オーソドックスな「エビ天+三角型白飯おむすび」だけが「天むす」ではないのだから。

 

 

 

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津 Tsu, How beautiful this city is!  “Tem-musu” (Rice ball with Tempura fillings)

Ep.253

Tem-musu” is the rice ball with tempura fillings.

Many people think that this is one of the Nagoya-mesi, but originated from Tsu, Mie prefecture.

Tem” means just tempura, NOT “shrimp tempura”, so that we can create this one more free idea.

Today, I developed it as “Tawara shaped(Bale shaped)-Aji(Takikomi gohan)-Tanuki(tem-kasu) tem-musu”.

What a wonderful idea is!

 

www.gansotenmusu.com

www.tenmusu-nagoya.com

kyoudo-ryouri.com

www.kankomie.or.jp

 

蒲生氏郷

Ep.252

先日、今村将吾氏の『五葉のまつり』(2024)を読み終えた。単行本で600ページを超える作品。

おもしろいことはわかりきっていたけれど、それでも読む前はその分厚さにげんなりしたものだった。

しかしさすがに今村作品。のめり込むように読み始めると1週間もかからなかった。

 

『五葉のまつり』(2024)  新潮社より

 

私はこの著者のファンなので戦国時代を舞台にした小説はすべて読んできた。

これまで光が当たらなかった人物や出来事を描くことに定評があると言われる今村氏。「戦国時代を舞台にした作品は世の中に無数にあるからもうネタが残ってないんじゃない?」 と思う人がいるかもしれないが、この人の着眼点と物語を膨らませる力をもってすれば、まだいくらでもエンタメ作品を生み出せるのだ。

 

今村将吾氏 講談社文庫 HPより

 

『五葉のまつり』は豊臣秀吉政権下、政(まつりごと)の陣頭指揮をした5人の奉行、すなわち、石田三成(行政担当)、浅野長政(司法担当)、前田玄以(宗教担当)、増田長盛(土木担当)、長束正家(財政担当)の物語だ。

彼らの上司である秀吉(つまりこの時代の最高権力者)が発案するビッグイベント、例えば刀狩り、検地、北野大茶会、醍醐の花見などを準備・運営・遂行して成功に導く様が描かれる。

豊臣秀吉太閤検地をおこなった」と歴史の知識としておぼえるのは楽だけれど、その「実務」に奔走した数多くの裏方の人間たちがいたのだ。

 

奉行は今でいう大臣にあたる。彼らの仕事への向き合い方や政への情熱、本心では秀吉を快く思っていない諸大名たちとの対決・懐柔・忖度が見どころだ。

五奉行の中でも主役は石田三成。『八本目の槍』(2019年)と同様、相変わらずとびきりの秀才・怪物ぶりを本作でも発揮している。三成が同じ人物造形で描かれているのも嬉しい限りだ。

 

新しい石田三成像を築いたとされる傑作『八本目の槍』(2019)  新潮社より

 

『五葉のまつり』では五奉行を「邪魔する人たち」と「協力する人たち」を明確に線引きできるのも特徴だ。

前者(敵)は徳川家康伊達政宗千利休

後者(味方)は大谷吉継立花宗茂、そして蒲生氏郷である。

 

中でも蒲生氏郷(がもううじさと)は作中、非の打ち所がない完全無欠の武将として描写されている

戦に優れ、政に秀で、茶の湯や和歌にも通じる文化人であり、洞察力と心情の機微をも読める

 

蒲生氏郷の存在を私は元々知ってはいたが、この作品を通じて関心が湧き、後述の作品や文献にもあたることになった。

そして氏郷の関連書籍を読めば読むほど「こんなにも優秀なこの人物の知名度が低すぎるのはなぜだ?」と首をかしげざるを得なかった。

だから今回取り上げるのは蒲生氏郷について。

一時期は松坂(松阪)を所領とした、三重県ゆかりの人物である。

 

蒲生氏郷 滋賀県日野町 HPより

 

『五葉のまつり』の後に読んだのは、同じく直木賞作家の安倍龍太郎氏による『レオン氏郷』(2012年)。

蒲生氏郷を主人公として描いた数少ない小説の一つである。

 

序盤、信長配下の武将として数々の戦に参戦して功をあげ、本能寺の変が起こるあたりまでは駆け足で物語が進み、作品としてはずいぶん軽い印象。

やはり人間の一生を描くにはたかだか450ページでは足りないなと思ったものだった。(この点で司馬遼太郎は正しい。例えば『真田太平記』は文庫で全12巻だ)

 

中盤にさしかかり氏郷にキリスト教への信仰が芽生えるあたりから読み応えが増してきた。盟友・高山右近との問答を通して心の内を掘り下げる。

他方で著者が提示しているのはこの時代の権力者と世界とのつながりだ。

ポルトガルやスペインはゆくゆくは明を植民地化したいという思惑を持つ設定となっている。宣教師たちは明征服への嚆矢とするべく信長・秀吉に独占的な交易権(鉄砲や硝石)を提供する。武力で日本を統一したい彼らも表面上従わざるをえない。

「西洋の大国・帝国による地球規模での植民地化」という(ネガティブな意味での)ダイナミックなこの時代の状況は、極東の島国の人間たちにも、氏郷たちにも影響を及ぼす。

 

氏郷の内面を横軸に、外的状況を縦軸にして物語が進行していくのがこの作品の構図だ。

 

『レオン氏郷』(2012年)  PHP研究所より

 

その後物語は伊達政宗バチバチやりあう会津時代を描く中盤、朝鮮出兵を秀吉に止めさせようと奔走する終盤へ続く。だがその結末は残念でならない。

氏郷が秀吉・家康・政宗に出し抜かれ、要は”知略”の観点で彼らより一段劣る存在として描かれるのだが、ホントにそんなんでよかったの? と思ってしまう。せっかく氏郷を主役として取りあげたのに、最後はマヌケとして描かれる。逆上して秀吉を刺殺しようとするなんてのは、いくらなんでも物語として乱暴だろう。

 

安倍龍太郎氏 集英社より

 

ちなみに私にはこれら小説作品が「どこまで史実に則っているのか?」については知る由もない。秀吉主催の種々のイベントに五奉行全員が携わったのか?とか、誰が参加してどんなハプニングが起きたのか?など。

 

けれど史実かどうかなんてどうでも良いのだ。太閤検地朝鮮出兵があったのは歴史の事実だけれどディテールまではわからない。そこにストーリーやフィクションを創作する余地があるのだから。

もっと言えば“史実”とは何だ? という話にも突き当たる。この時代の”エビデンス”は文書になるのだろうが、もしそれが「信長公記」や「氏郷記」のような伝記ならば内容は誇張されてるだろうし、武将が誰かにしたためた文(手紙)ならば建前や忖度もあるだろう。

 

小説家という創作者の自由な発想があるから、今の世に生きる私たちはこの時代に想い馳せ、ファンになることができるのだ。

 

蒲生氏郷 「信長の野望 覇道」より

 

ところで私が蒲生氏郷の名を知ったのはたしか高校生のときだった。

帰り道で本屋に寄って戦国武将のムック本かなにかを買い、それになぜか最初のページに載っていて、かつとても評価高く書かれていたのが蒲生氏郷だった。初見の人ではまず読めないだろう「がもううじさと」という名も印象的だったし、このとき覚えたものだった。

当時からそんな本を買ってたくらいだから歴史が好きだったのだろう。

 

そもそも私はTVゲーム「信長の野望」をスーパーファミコンプレイステーションでよく遊んでいた。戦国時代の武将になって内政や外交、戦をして天下統一を目指すというロールプレイングゲームだ。

散々やり込んで色んな武将を操作したけれど、不思議なことに蒲生氏郷を操った記憶はない。

 

懐かしいな〜 「信長の野望 覇王伝」1992年発売 スーパーファミコンのソフト

 

先の2つの小説作品を読み終えた後、更なる資料にあたってみた。史実の確認が目的ではなく、単純にこの武将をもっと知りたいと思ったからだ。

あらためて蒲生氏郷の生涯を、特に三重県との関わりに着目して示した。

 

 

1. 信長配下時代

現在の滋賀県日野町、東近江市(「鈴鹿10座」参照)を所領とする蒲生賢秀(かたひで)の三男として1556年に生まれた氏郷。思えば、畿内出身であることは彼の人生の中で最上級に幸運だったと言えよう。

上京する信長に直面した蒲生家は、主従関係を六角氏から織田氏に変え、これに伴い氏郷は信長の人質となる。12歳のときだ。

 

以降、氏郷は織田家配下の武将として信長の有名な戦にすべて参戦(信長の場合はすべてが有名だが)姉川の戦い一乗谷攻め、浅井家小谷城攻め、長篠の戦い有岡城の戦いなど、そのすべてで武功をあげて猛将としての名声を高めた

 

この中には、伊勢長島攻め伊賀攻め、という三重県を舞台にしたものも含まれる。

前者は「長島の一向一揆」のこと、信長最大の敵と言える一向宗との、中でも最も激しいとされた戦のことである(Ep.29など参照)。

 

そもそも14歳での初陣が現在の松阪にあった大河内(おかわち)城攻めとされる。信長が伊勢国司の北畠具教(とものり)を攻めたものだ。そう、Ep.94の津市美杉町の回でも取りあげた北畠氏である。

このとき信長軍は城を落とせず。それでも信長の次男、信雄(のぶかつ)を養子に入れることで支配下に置いた。信雄とは、Ep.182で取りあげた菰野藩初代藩主正室、八重姫の父である。

 

さらに言うと、朝倉家討伐のため福井に出兵した姉川の戦い浅井長政のまさかの裏切りにより背後を突かれるという信長最大のピンチ金ヶ崎の戦い。秀吉に殿(しんがり)を任せて信長自身は美濃(岐阜)に急ぎ退却するのだが、浅井家の軍勢が待ち構えている通常ルートを避けるとなると、鈴鹿山脈を越えるしかなかった。

この際に現在の日野町、東近江市を領土に持ち、千草街道、八風峠などに精通している氏郷は信長を大いに助けたと想像できる。Ep.76のイブネ登山であった「杉谷善住坊のかくれ岩」とはこのときのものだ。杉谷の狙撃を受けながらも、信長は美濃へと無事辿り着いた。

 

鈴鹿10座の一つ「イブネ」の登山で歩いていたら現れた

このときは信長がなぜこの道を通っていたか、その背景を知り得なかった

 

こうして見ると、このブログで取り上げてきた三重県内の”織田信長ゆかりの場所”は、そのいずれにも蒲生氏郷が深く関わっていたのだ!?

 

 

2.本能寺の変とその後

信長からの評価は高く、彼の娘(詳細は不明なようだが冬姫という名とされる)と婚姻した氏郷。信長が義父となったのだ。

しかし1582年、明智光秀の謀反「本能寺の変」が勃発。ここでとった氏郷の行動は広く知られていない。

彼と実父・賢秀は安土城に残っていた信長の妻子を自身の居城、日野城に避難させた

本能寺の変後に歴史の文書から姿を消す謎多き信長の正室帰蝶濃姫)もこの中に含まれていたかもしれない。

その後、日野城明智の軍勢に囲まれるも籠城で応戦。そうこうしているうちに秀吉が「中国大かえし」で京に戻って明智本隊を撃破したため危機は去った。

 

一般にこの出来事は、明智光秀が主君を討つことには成功したもののその後は誰も味方に引き入れられず孤立し、秀吉に速攻で討たれる「三日天下」に終わった、と考えられがちだ(私もそう思っていた)。

だがクーデター直後はどうもそうではなかったらしい。

 

本能寺の変から秀吉リターンまでの期間、畿内のほぼすべての勢力は明智光秀に呼応・賛同・消極的支持したのだという。

安土城にも、明智の大軍勢が迫っている、信長の家族は皆殺しにされる、蒲生家にも攻めてくる、そんな恐怖があったことだろう。

当然ながら当時はマスコミも電話もないから、光秀がどんな意図があって次は何をしたいのか、どれほどの勢力か、そもそも誰と結託しているのか、など不確かなことだらけでパニックだったに違いない。

 

明智光秀は自身に従うよう何度も説得したようだが、畿内でほぼ唯一、蒲生家は拒否した。

このような状況だったから、氏郷父子は後の展開を鑑みるとリスクを承知で完璧に正しい判断をしたといえる。父・賢秀というのも非常に優秀な人物だったようだ。戦国武将で父子2代に渡り優秀なのは例外的だろう。

 

映画「清洲会議」(2020年)

 

その後、織田家家督を決めるいわゆる「清洲会議」があったが氏郷の存在感は低い。秀吉、柴田勝家丹羽長秀滝川一益など織田家の重鎮たちとは世代が異なり親子ほどの差があるので、主導権を握ることはなかったようだ。

氏郷は以後秀吉に従うこととなるが、この選択も完璧に正しかった。

 

というのも信長のもとに来て以降、実は氏郷は柴田勝家の与力(有力者の下で働く・補佐する人)として活動していたのだ。織田家随一の猛将である勝家から戦を学んだといっていい。

だからこそ勝家を見かぎり秀吉のもとに行ったのは周囲にとってサプライズだったはずだ。『レオン氏郷』ではこのあたりにもっとふれればよいのに完全にスルーされている。

 

氏郷は「賤ヶ岳の合戦」では敵本隊への出陣はなく、勝家に呼応して秀吉と対立した滝川一益と北伊勢で対峙していた。現在の三重県北部である。賤ヶ岳の合戦の裏側だ。

この戦いの舞台の一つが亀山城Ep.101参照)で、滝川一益の手に落ちた同城を奪い返すべく氏郷の軍が向かった。亀山は当時から、畿内と東をつなぐ交通の要衝だったのだ。

 

このように氏郷が畿内の東に睨みを利かせていたから秀吉は勝家を討つことができた。以降、氏郷は信長に替わってこの国の最高権力者になった豊臣秀吉から絶大な信頼を得ることになる。

 

滝川一益 織田家重臣のこの人も伊勢国三重県)にゆかりのある人物である。彼が攻めた湯ノ山温泉の三嶽寺(さんがくじ)から、当地のご当地グルメ「僧兵鍋」が生まれた(Ep.208参照)

 

 

3.松坂城主時代

秀吉配下となってからも相変わらずエポックメイキングな戦にすべて出陣。小牧・長久手の戦い、九州攻め、小田原城攻め。

小牧・長久手の戦いは先述の千姫のパパ織田信雄が秀吉に反旗を翻して家康と組んだことで戦に至った。秀吉と徳川家康が初めて戦場で交わり、戦闘としては家康が勝利した有名なものである。

実はこの戦の発端は現在の松阪市の海沿いにかつてあった松ヶ島城にあった。秀吉に敵対したこの城の主を討つべく氏郷が向かったのだ。

ところで氏郷と織田信雄はほんの2年前、賤ヶ岳諸戦のときは協力して滝川一益と対峙していた。昨日の味方は今日の敵である。

 

その後、氏郷の人生でも転機となったのが1584年。領地替えで南伊勢、松ヶ島城に入城することになったのである。現在の松阪市だ。というか「松坂」という地名も氏郷によって付けられた

蒲生家にとって出自の滋賀県日野町にある氏神、綿向神社の「若松の森」にちなみ「」を、秀吉が居る大坂から「」をとったのだ。

南伊勢の松坂は東近江の日野から80km程度しか離れていない。氏郷にとって故郷を離れる寂しさはあったかもしれないが、まだ土地勘のあるこの場所は幸運だったかもしれない。

 

 

氏郷は城下町造りにも熱心に取り組み、元々は海沿いにあった松ヶ島城を廃城とし、そこから4km陸地側にある場所に城を新設した。現在も跡が残る松坂城である(Ep.184参照)。

この城下町では信長の楽市楽座に倣って発展を目指した。日野から有力商人(近江商人)も呼び寄せ、経済を活性化させたのだ。この辺りの手腕が氏郷が「文武に秀でる」とされる所以だ。

 

後にこの地から、三井グループの祖・三井高利国学者本居宣長Ep.206)を生むこととなる。

現在に至る“品格高き古都 松阪”を築いたのは蒲生氏郷なのだ。同市では毎年11月、「氏郷まつり」を開催してその功績を称えている。

 

 

4.伊勢国去りし後、奥州時代以降

1590年、松坂を去り会津に赴いた。秀吉の命によるものだ。

関東(南側)には家康が、奥州(北側)には伊達政宗がいる中で、両者に挟まれた会津。ついでに言うと、越後(西側)には上杉景勝がいた。秀吉にとって安心できない、有力な大大名が蠢く恐ろしき東日本。

けれどこれは罰ゲームではない。秀吉にとって、この地を託せるのが蒲生氏郷ただ一人しかいないと切実に思ったためであると思う。

万が一、家康が反旗を翻して秀吉を討つために西に向かえば、氏郷にその背後を突かせられる。政宗が野望を持って南下しようにも氏郷ならば抑えられる。

 

蒲生氏郷が得たこの会津90万石の所領は、家康、前田利家に次ぐ当時全国第3位の規模だ。それこそが秀吉からの絶大な信頼の証だった。蒲生氏郷自身が全国有数の大大名となったのだ。

 

なお彼の赴任時は「黒川」と呼ばれたここの地名も、のちに「会津若松」に改められている。

 

旅行で訪れた会津若松鶴ヶ城は当時改修工事中だった(2010年)

 

朝鮮出兵文禄の役)では現在の佐賀県にあった肥前名古屋城に参陣するも体調を崩して会津に帰国。症状は悪化して京都で病死した。1595年、まだ40歳の若さだった。

 

 

[“ガモジ”伝説]

亀山や安楽川(鈴鹿川)流域の北勢地域では「恐ろしいもの」を意味する「ガモジ」という方言があるという。子どもが言うことを聞かないときに「ガモジが来るぞ」などと言って脅すようだ。

そして実はこれ、蒲生氏郷(がもううじさと)に由来するのだという。

私は最初にこれを雑誌(「NAGI 凪」2020秋号)で知ったとき、まさか、と思った。

 

ガモウウジサトだからガモジ。まるで現代の人がつけるようなニックネームと省略の仕方だし、戦国時代から現在までずっとそんな呼称・伝承が続くものだろうか? と思ったものだが、考えてみれば後者は何も「当時から」という証明はどこにもない。

 

蒲生氏郷伝説』(振角卓哉著、2021年)では、著者がなんとガモジ方言の範囲と、いつ・どこで・具体的に何の合戦からそれが来たか、というのを考察していた。

 

蒲生氏郷伝説』(振角卓哉著、2021年)より

 

[松阪赤菜伝説]

最後にもう一つ。

Ep.72で取り上げた「みえの伝統野菜」の一つ「松阪赤菜」。

鮮やかな紅色をしているのが印象的なこの在来野菜は「日野菜」の原種に近いとされ、氏郷によって近江から松阪に持ち込まれたとされる。

 

氏郷は故郷で食したこの野菜を新天地でも美味しく味わいたかったのだろうか。

そんなことに思いを馳せるのもまた楽しい。

 

松阪赤菜

 

近江国・日野に生まれ、織田信長豊臣秀吉のもとで縦横無尽に伊勢の戦場を駆け巡り、他方で松阪の街を整備して今日に至る品格高き都を築き上げた蒲生氏郷

短い生涯でこの時代を駆け抜けた稀代の戦国武将であった。

 

 

参考文献)

・振角卓哉『蒲生氏郷伝説』(2021年、サンライズ出版)

・福永保『蒲生氏郷が攻めた城・築いた城』(2020年、サンライズ出版)

・今村将吾『五葉のまつり』(2024、新潮社)

安倍龍太郎『レオン氏郷』(2012年、PHP研究所)

・加来耕三、水谷俊樹、中島健志『戦国人物伝 蒲生氏郷』(2019年、ポプラ社)

 

 

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Gamou Ujisato

Ep.252

蒲生氏郷 Gamou Ujisato (1556-1595) was one of the generals of the Warring State period and associated with Mie prefecture (former name Ise).

As a brave warrior under Oda Nobunaga and Toyotomi Hideyoshi, he ran around his battle field that was included from the north to the south of Ise.

In addition, since he became a feudal lord of 松坂 Matsusaka, he had contributed to the development of this city.  His great achievement remains in present day, therefore Matshusakacity holds “Ujisato festa” every November.

 

www.town.shiga-hino.lg.jp

www.city.matsusaka.mie.jp

usagism2000.theshop.jp

 

ラグビー 三重ホンダヒート vs 埼玉パナソニックワイルドナイツ 編

Ep.251

埼玉パナソニックワイルドナイツ

約15年にも渡り日本ラグビー界の(ほぼ)頂点に君臨する最強のクラブチームである。

 

埼玉パナソニックワイルドナイツ後援会 HPより

 

私がラグビーを見始めた2001年を起点とすると、この国のラグビーチームの覇権はサントリー(現東京サントリーサンゴリアス)→東芝(現東芝ブレイブルーパス東京)→三洋電機(現埼玉パナソニックワイルドナイツとなる。

三洋電機は2007シーズンに優勝して以降、毎シーズン優勝かベスト4に入っている。異常なことだ。

この間、サントリー神戸製鋼(現コベルコ神戸スティーラーズ)やクボタ(現クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)が単発で優勝したり昨年から東芝復権したりしているが、一時代を築くまでに至っていない。

偉大なる王者、それが埼玉パナソニックワイルドナイツである。

 

埼玉スバル HPより

 

堅実な選手たちが揃っているのが埼玉の特長だと思う。大学ラグビー界のスターは獲らないイメージがある(藤田慶和、山沢京平、佐藤健次などは例外だ)。

堀江翔太、稲垣啓太、ヴァル・アサエリ愛、坂手淳、クレイグ・ミラー、ルート・デ・ヤハー、ジャック・コーネルセン、ベン・ガンター。

FWの前5人はいずれも日本代表の主力や常連が並ぶ。やはりこの競技では第一列、第二列の選手の実力と働きがチーム力に直結するのだと、痛感する事実だ。

 

今回はそんな最強軍団が覇権を獲る前、三洋電機時代のことを記してみたい。

 

ロビー・ディーンズ監督 Robbie Deans この世界的名将に長期で託しているのも大きそうだ Rugby Japan 365より

 

彼らは「野武士軍団」と呼ばれた(今でもたまに呼ばれる)。

それはワイルドナイツ Wild Nights(野生の騎士)というチーム名から来ているのだろうが、それ以上に、当時の選手たちの風貌がそう呼ばせていたのは間違いない。

どういうことか?

 

まず2000年代に入り最初に黄金時代を築いたサントリーEp.189でも書いたが、

小野沢宏時、斉藤祐也栗原徹伊藤宏明

という主力選手たちの外見はかっこよかった。東京の郊外(府中)を本拠とし、メインスタジアムは都心の秩父宮というのも、都会的な匂いがしてすこやかさがあった。

 

続いて時代を築いた東芝も然りだ。

冨岡鉄平大野均廣瀬俊朗スコット・マクラウド

サントリーより”武骨”になっている印象だが、やはりカッコいい。

(ルアタンギ侍バツベイはこの例からは外れるが..。Ep.201参照)

 

転じて三洋電機はどうか?

霜村誠一北川智規、ホラニ龍コラニアシ、トニー・ブラウン、山田章仁、そして堀江翔太(ただし若き日の堀江はきれいな顔をしていた)

彼らの外見を思い出すとやはり”野武士”の形容は的を得ていた。

 

霜村誠一 ラグビーリパブリックより

北川智規 日刊スポーツより

ラニ龍コラニアシ Number Webより

山田章仁 懐かしいこのヘアースタイル..当時はアメフトとの二刀流を試行していた Number Webより

堀江翔太 スポーツナビより

 

そんな野武士軍団に君臨した王がいた。

SO(スタンドオフ)のトニー・ブラウンである。

19年、23年W杯でジャパンのアタックコーチとして名参謀になり得たブラウン氏の、現役時代だ。

 

トニー・ブラウン 日刊スポーツより

 

私が強烈におぼえているのは2007-08シーズンの日本選手権決勝、三洋電機vsサントリー戦だ。

私はこの試合をリアルタイムで観ていた。そしてブラウンのパフォーマンスに、雷に打たれたかのような衝撃を受けていた。

チャンスでは急襲し、劣勢では相手をいなし、すかした。サントリーは、翻弄された。

この試合、ブラウンは何をやってもうまくいった。特にロングキックの判断とその結果がずば抜けていた印象がある。

ブラウンはチームを優勝に導いた。本当にブラウン一人で勝った。

敵将の清宮監督(Ep.189参照)も「相手の外国人選手がよかった」と、”この時期のこの人らしからぬコメント”を残していた。

 

フィールドの上にいる敵味方含めた他の29人全員が、ブラウンという王の支配下にあった。

私は、トップレベルの試合でこれほどに異次元のパフォーマンスを見せつけたSOの選手を他に知らない。

 

トニー・ブラウン J-Sportsより

 

今振り返って思うのは、失礼ながら当時の三洋電機の監督はじめコーチ達は、どごまで詳細にゲームプランや戦術・戦略を練って、それをブラウンに指示していたのだろうか? ということだ。

要は、ブラウンの裁量に任されていたのでは? と思うのだ。

試合前も試合中も、ブラウンの頭の中だけに”絵”があって、それを彼自身が実行・具現化して完結したのではないか? という印象が拭えない。

 

現在のリーグONEでは起こり得ないことだ。今はコーチ陣が、この試合はこういう戦い方をする、この場面ではこうする/これはしない、と、詳細を徹底的にSOに指示しているに違いないからだ。いやSOだけではなくメンバー全員に共通の”絵”を描かせている。

それこそがこの競技のトップカテゴリーのチームの指導者の仕事だし、何よりゲームを進める上でリスクが排除された”最適”なものなのだろう。

 

しかし当然ながらその一方で、それはSO(=フィールドの司令塔)独自の想像力・肌感覚を規制するものでもあるのだ。当時と現在では時代が違う。

だからもう、SO一人が徹底的に輝きを放つこのような試合は起こらないかもしれない。この試合は現在、トニー・ブラウンの奇跡と伝説を伝えるものとなっている。

 

ジャパンの名参謀になった 朝日新聞より

 

明言するがここから先は余談である。

当時の三洋電機は、ラグビーの他にもう一つ強豪クラブを持っていた。「女子バドミントン」である。

小椋久美子潮田玲子(つまりオグシオ)、廣瀬栄理子、といった選手が所属していた。

 

競技の枠を超えて国民的大人気となったオグシオは、爽やかで清楚(←死語)な姿を国民に提示し続けた。

野武士と清楚。そのあまりに革命的なコントラストは笑えるもので、一部のスポーツ紙がいじっていたのも懐かしい。

 

オグシオ小椋久美子選手と潮田玲子選手)Smart Sports News より

 

なおオグシオのオグ、つまり小椋久美子さんは三重県川越町出身だ。

川越町は桑名市四日市市に挟まれた小さな小さな町。川越火力発電所や川越電力館テラ46(Ep.197参照)がある。

 

先日、いなべ市のイベントに小椋さんが来場したと地元のニュース(CTYの「いなべ10」)が報じていた。

「日本エアバドミントン協会会長」とのことだった。

 

アバドミントンて何?

と思って調べると「風の影響を受けにくいシャトルを使う屋外で楽しめるバドミントン」とのことだった。

現在はバドミントン競技の普及に尽力されてるようだ。

 

小椋久美子オフィシャルホームページより

日本エアバドミントン連盟 HPより

廣瀬栄理子選手 ライブドアニュースより

 

オグシオに光が当たる一方で三洋電機に所属していた廣瀬栄理子さんはシングルスの選手で、日本選手権優勝5回、08年北京五輪に出場した名選手だった。

私はこの選手に思い出がある。もう20年以上前、2002年の茨城インターハイのときのこと。Ep.61でも書いたが、私の地元のつくば市がバドミントン競技の開催地となり、当時高2の私は手伝いに駆り出されていた。(開催地の部活動部員は駐車場案内や会場設営などの任務を与えられるのだ)

 

バドミントン競技の開会式が行われる前日は、会場のカピオのホールで午前から会場設営をしていた。

そんな中、明らかに何もしてない女子が客席に座ってずっと携帯をいじっていた(もちろんこの時代はガラケーだ)。高校生のようだった。

その女子を見たとき「この人って、、廣瀬選手じゃないの??」と思った。

 

というのも私はその日の朝(わずか数時間前!)、家で朝日新聞のスポーツ欄を読んでいると「注目のインターハイ選手」というコーナーで、顔写真入りの廣瀬栄理子選手の記事があり、これを読んできたばかりだったからだ。

青森山田高校のエースで、シングルス・ダブルス・団体の3冠が期待される、と記事にはあった。廣瀬選手は当時高3。私の1学年上だ。

 

「あの〜すいません、廣瀬選手ですよね?」

などとはさすがに聞かなかったのでこれが事実だったかどうかは今では知る術もないのだが..。興味深い思い出だ。

 

廣瀬栄理子さん 現役引退後は競技の普及や育成に尽力しているようだ 株式会社RIGHTS.より

 

廣瀬さんは高校卒業後の2003年春、三洋電機に入り10年間活躍した。そして2014年に30歳の若さで現役引退されたようだ。

日本の女子バドミントン界で一時代を築いた選手だったが五輪や世界選手権でメダルを獲るまでには至らなかった。

”世界で勝てる”日本人選手が現れるにはまだ、若干の時間が必要だったのだ。奥原希望山口茜といった選手は次の世代になる)

 

 

ということで「ラグビーの埼玉パナソニックワイルドナイツの話で始まったのになんでこんなところまで脱線するんだよ」と思われるかもしれないがそれがこのブログなのだ。

話を戻そう。

 

三重ホンダヒート HPより

 

Japan Rugby League ONE, Dision1の第15節。三重ホンダヒートvs埼玉パナソニックワイルドナイツ(25/04/11、秩父宮)。

秩父宮開催だがヒートの主催試合だ。

大雨が降っているが観客席はほとんど埋まっていることに驚く。(親会社としての)ホンダはこんなに社員を集められるのかよ!? と驚く。後の発表では観客は1万5千人とのことだった。シンジラレナイ…。これが鈴鹿だったら400人しか集まらないだろう。これこそが、ヒートが来々シーズンに宇都宮に移転する理由なのだろうな..(Ep.231参照)

 

キックオフ。

埼玉が攻める。ほとんどの時間をヒート陣内で試合を進める。

ヒートは元々地力で劣るだけでなくここ数試合は破滅的な失点数で連敗しておりディフェンス崩壊中。予想通り失点・失トライを献上するが一方で相手のミスからトライを奪い、前半終了で19-19の同点という意外な展開。

 

30分のヒートのトライシーンは相手のハンドリングエラーからダーウィッド・ケラーマン選手がドリブルで一気に前へ。敵も味方も必死でボールを追いかける。

こういう、みんなが「よーいどん」で走るシーンを観ると、このレベルのバックスの選手というのは本当に足が速いな…とため息が出る。

ケラーマン選手は特別俊足だと私は思ってこなかったが、本当に速い。相手より先にグラウンディングしてトライを獲った。

 

ダーウィッド・ケラーマン選手(左) Dawid Kellerman 三重ホンダヒート HPより

 

後半の最初のトライは埼玉。その後も連続得点・トライで突き放し勝負を決めた。

33-53で埼玉が快勝した。

 

ヒートはラストに意地を見せた。WTBテビタ・リー選手のWTBらしからぬポイントからのピック・アンド・ゴーによるトライだ。

ヒートFWの連続ラックサイドアタックのオーバーに入り続けて、気付けば目の前に視界が開けていた。

 

私は2023年W杯におけるオールブラックスWTBマーク・テレアのプレイを思い出していた。「君はWTBなのにそんなにポイントに関わり続けていいんかい? 一度下がってラインに復帰しなさいよ」と最初に見たときは思ったのだが、振り返ると私のその認識こそガチガチの固定観念にとらわれていたと言わざるを得ない。

 

バックスは、ラグビーはもっと自由でいいのだ。

チャンスと見れば、誰だって、どのポジションの選手だって、一番ボールに近い場所にい続けてゲインを目指せばいいじゃないか。

テレアがそれを教えてくれた。世界最強のオールブラックスがそれを実践する、システムを破壊する。だから彼らは偉大なのだ。

 

このリー選手のプレイとトライを強く支持したい。

元トライ王という肩書で昨シーズンよりヒートに加入したものの初年度は空回りした。チームが地力に劣る場合や自FWがフィジカルバトルで劣勢のとき、WTBが活躍できる余地は少ない。

その中でどうするか。それを考え、実行に移したのが、今回のプレイだったと思うのだ。

実際、ヒートでのリー選手のパフォーマンスはどんどん良くなっていると思う。

 

テビタ・リー選手 Tevita Li 三重ホンダヒート HPより

 

これでヒートは4勝11敗。

「連敗中だが毎試合5トライ30得点くらいはとっている。攻撃力はあるから良し」

とする意見に私は反対だ。

ロースコアゲームでない以上、自ずと負けたチームでもそれなりに得点は入る。得点の一方で8トライ50失点くらいして負けているのだから、ハイスコアを取れることがなぐさめになるはずなんてないじゃないか。

プロ野球でいう、毎試合5点はとれるけど確実に10失点以上して負ける、ようなものだと思う。「毎試合5点も取れるのはすごい!」とはならない。

 

現在12チーム中、11位にいる。

残り試合、ディフェンスの強さを取り戻して勝利してほしい。

 

三重ホンダヒート HPより

 

 

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Rugby Mie Honda HEAT vs Panasonic Wild Knights

Ep.251

Round15 of Division1, Japan Rugby League ONE in 24-25 season, Mie Honda HEAT fought Panasonic Wild Knights who has been the strongest team for so long 15 years.

This match was played in heavy rain and Wild Knights won, 53-33.

HEAT lost a lot of runs as same as recent matches..

They urgently need to rebuild their defense.

 

www.honda-heat.jp

panasonic.co.jp

kumiko-ogura.com

number.bunshun.jp

 

てこね寿司

Ep.250

250回に到達した。なんて快挙だろうか。このブログのことだ。

2020年10月のブログ開設時「20回分は書けそうだな」と思い始めたのだが、50回、150回、200回と突破してついに250回に到達した。

 

「同じことをずっと続けていける」

という強みが自分にはあったんだな、と感心する笑。

次なる目標、300回に向けての執筆がスタートした。

 

 

そんな250回目の今回は志摩地方の郷土料理の一つ「てこね寿司」について。

もとは海に出て船上で何日も過ごす漁師たちの作る食事に由来する。

船上でとれた魚をその場でさばいて、手で混ぜあわせたことから「てこね(手捏ね)」と名付けられた。

 

伊勢女衆の味 すし久 (伊勢市) 「てこね寿し 梅」 観光三重 HPより

七越茶屋 (鳥羽市) 「手こねずしと伊勢うどんのおすすめ膳」  観光三重 HPより

てこね寿司 うちの郷土料理HPより

 

ネット検索するとずいぶんと洗練された写真が出てくる。

「郷土料理」として伊勢などの観光地でも食すことはできるが“漁師メシ”という由来を考えると本来は粗野(=洗練されていない)であるべきはずのもの。

豪華で多様な海産物で満たす必要も、時間をかけて作る必要もないのだ。

 

もっとも、男たちが船上で食べるだけでは「郷土料理」には昇格しないはずで、陸でも食されていたのだろうが。

 

そんなてこね寿司を作ってみよう。

 

志摩市観光協会HPより(Ep.9参照)

 

てこね寿司の食材調達1:マグロ

まずは刺身を選ぶ。遠洋漁業のターゲットとなる二大赤身、鮪(マグロ)と鰹(カツオ)だ。まずマグロから。

私は角幡唯介氏のノンフィクション『漂流』(2016年、新潮社。Ep.56参照)を読んで、マグロ漁師たちが船上にて自分たちの釣ったマグロを(おもに刺身で)食べる描写がとても印象に残っている。

 

同ルポ内で、マグロ漁船の船長は「これだけはやめられねえ」と言ってマグロの刺身を食べ続けている。著者は「この人は数十年も刺身を食ってまだ飽きないのかよ」とその姿にイラつく。

このシーンが好きだ。

想像してほしい。彼らは海の上で年間百日以上過ごす。その生活が何十年も続く。

陸とはまるで異なる世界で生きているのだ。

 

「てこね寿司」を作るにあたり、要するに私は彼ら漁師を支える食事を、簡素で粗野で時短であるだろう彼らのメシを、その精神をイメージして作りたくなったのだ。

 

マグロ漁船(イメージ) JDNより

 

というわけでスーパーに行きマグロを選ぶ。

キハダマグロミナミマグロ、ビンチョウマグロ、メバチマグロ..。

本マグロ(クロマグロ)が、ない..

ここは地域最大級のスーパー。マグロの種が多様なことは分かるが“マグロの王様”である本マグロは販売されてないのだった。

仕方ないので何か適当なマグロを選び、、かけたのだがやはり思い直して「本マグロじゃなきゃダメだ」となったため後日近鉄百貨店四日市から本マグロを調達した。

 

マグロの種類 Kufura HPより

イメージ(クロマグロ) 宮古毎日新聞(2023/06/07)より

イメージ(クロマグロ) 産経新聞(2024/07/16)より

 

 

てこね寿司の食材調達2:カツオ

カツオについては前から作ってみたいものがあった。「カツオの味噌たたき」である。

静岡県磐田市の南部、太平洋沿いの福田(ふくで)という地域の郷土料理で、当地のスーパーで見かけたことがある。

カツオの身をたたき、味噌や薬味とあえたもので、要は「なめろう」のカツオ版と言える。

 

カツオの味噌たたき 渚の交流館(静岡県磐田市)より

 

余談だがこの地域のスーパーの海産物コーナーはすごい。一介のローカルスーパーであってもたくさんの種類の魚介を揃え、かつとても安い。海に面する街とは、こんなにも豊かなものなのだと感銘を受けた(私は2年間袋井市で生活した)。近鉄百貨店四日市の海産物コーナーでも完敗するレベルだ。

 

イメージ(カツオの一本釣り) 宮崎日日新聞(2019/11/12)より

 

てこね寿司の食材調達3:その他

突然だが「おぼろ昆布」と「とろろ昆布」の違いをご存知だろうか?

 

おぼろ昆布;一枚の昆布から職人が手作業で削る

とろろ昆布;複数枚の昆布から機械で削る

 

いずれも昆布を紙のように極めて薄く削ったものだが、要は加工法が異なるのだ。

 

おぼろ昆布(左)ととろろ昆布

 

四日市の中央通り近くにある海産物・乾物問屋「伊勢昆布」。店内には全国からの厳選したかつおぶし、昆布、わかめなど多様な商品が所狭しと並ぶ。

初めて行ったとき、ここで興味本位におぼろ昆布を購入した。

家で食べてみて驚いた。強烈に立ち昇る香り、風味。これが“本物”なのだと悟った。

少なくともとろろ昆布はスーパーでも市販されているが、あれはまったくのパチものなんだと知った。おぼろ昆布(とろろ昆布)に対する概念が変わったできごとだった。

 

海産物・乾物問屋「伊勢昆布」四日市

 

おぼろ昆布についてはこの辺りのスーパーではまず見かけないが、富山県では郷土料理になっている。海苔の代わりにおぼろ昆布で覆われたおにぎりを見たことがあるだろうか?

かの県は昆布の消費量全国No.1とのことだ。

 

とろろ昆布のおにぎり(富山県の郷土料理) うちの郷土料理HPより

 

そんな訳で私はおぼろ昆布をどうしても使いたかったのだった。

 

食材が揃ったところで料理にとりかかる。

酢飯は使わない。船上ではわざわざ酢飯なんて作らないだろう。白飯の上に載せればいいのだ。

 

本マグロ(マルタ産)

カツオ(鹿児島産)

 

カツオの味噌たたきについて。見た目はさておきうまくできた、と思う。

ここで使用した味噌は「手前味噌2024」だ。自家製味噌作りももう4年目になる(Ep.66参照)。

 

カツオのたたき、大葉、しょうが、手前味噌2024

カツオの味噌たたき

 

春シーズンの三重の名物「生あおさ」(Ep.211参照)も近鉄から買ってきて載せる。

ということで「てこね寿司 in  Spring Season 2025 featuring 遠州」なるものを完成させた。

 

「てこね寿司 in Spring Season 2025 featuring 遠州

 

醤油を上から少し垂らして食べてみる。本マグロ、カツオの味噌たたき、美味しい。おぼろ昆布、生あおさも存在感を発揮。

おぼろ昆布の香りが強い。人によってはこれを“いい匂い”と思わないかもしれないが私は好きだ。生あおさの香りの強さが1だとしたら、海苔は6、おぼろ昆布は10といったところ。

おぼろ昆布は、味噌汁などの汁物に浸して食すのが通常とされるがそのまま食べてもいける。塩気が結構強いのだ。つまみにもいい。

 

白い炊き立てのご飯に本マグロの刺身と味噌であえたカツオ、乾物を載せた「てこね寿司」。

海の上の男たちのメシに思いを馳せながら食べたのだった。

 

 

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Tekone-Sushi

Ep.250

てこね寿司 Tekone-Sushi is one of the regional cuisine of Shima.

This is originated from the meal on fishing boats of high seas fishing, therefore be suitable to cook easily and quickly by fishermen (Tekone means “knead by hands”).

Tuna or bonito sashimi are served on rice with soy source.  It’s so simple and rough (No sophistication).

 

This time, I tried cooking this while respecting its original spirit.

After procuring all ingredients, tuna(Pacific bluefin tuna), bonito with miso and some sea weeds (Oboro-kombu, Aosa-Nori, Nori) are put on a rice bowl.

What easy and also delicious one!

 

www.maff.go.jp

 

 

関宿「東海道のおひなさま」

Ep.249

亀山市関町。

東海道の町並みが残る47番目の宿場町「関宿(せきじゅく)」は、妻籠宿(長野県南木曽町)や馬籠宿(岐阜県中津川市)ほど大きくもなく有名でもないが、三重県を代表する観光地である。

 

1.8kmにも及ぶ江戸時代からの建物。伊勢別街道、大和街道につながり参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として栄えた。(観光三重HPより。「式年遷宮リユース」として記したEp.109も参照)

 

関宿 観光三重より

 

以前、関出身の職場の後輩に「亀山出身だよね?」と聞いたら「いや、関です」と言われたことがある。

そのとき、関町は誇り高い地域だな、と思ったものだった。

 

あるいはそれはただの思い違いかもしれなかった。

というのは、○○町が市町村合併で△△市に編入されて自治体としては消滅したパターンの場合、「従来からの△△市ではなくの昔の○○町エリアの出身」という意味で使われることがよくあることを、私は知っていたからだ。

もっとも、それは地元民同士の会話の中で、であるが。

 

亀山市観光協会 HPより

 

そんな関町の夏の風物詩が「関宿祇園夏まつり」(7月) と「東海道関宿街道まつり」(11月)だ。

一方で冬にもイベントがある。「東海道のおひなさま 亀山宿・関宿」である。2025年の場合は2/8〜3/3に開かれた。

 

これは一般家庭などの雛人形や吊るし雛を窓先に出し、道ゆく人に鑑賞してもらおうというものだ。

この時期県内にはこの手の催しがいくつかあり、以前取り上げたいなべ市阿下喜の「あげきのおひなさん」(Ep.143参照)もこれである。

 

関宿は何度か訪れたことがある私であるが、今回はこのイベント目当てで訪れた。

 

JR関西線で来てみた

「関駅」に来たのは初

観光地だが圧倒的に閑散としている。交通系ICカード使用不可

改札口がない方に目をやると砂利と畑と山

関駅構内

関駅構内

関駅 ここから町歩きスタート

銘菓「関の戸」の深川屋

「関の戸」 三重名店ばんざい HPより

銘菓「志ら玉」の前田屋製製菓

「志ら玉」

 

銘菓「志ら玉」の前田屋製菓の店内で休憩する。座布団が「志ら玉」になっていてビックリ!?

ここは東海道だが、この「志ら玉」も“餅街道”(伊勢街道&伊勢別街道。Ep.96参照)の一角を占めていると言えそうだ。

 

 

歩いていると「桶重(おけじゅう)」が現れた。

中が見える。工房だ。関や亀山では桶の生産が盛んで、昭和初期まで20軒ほどの桶屋が営業していたというが、現在ではこの「桶重」ただ1軒のみとなったとのこと。(亀山市史HPより)

現在は三重県指定伝統工芸品になっている。「花手桶や寿司桶など大小さまざまな桶の受注生産を行っている」(観光三重HP)とのことだ。

 

観光三重HPより

HISTRIP HP より

 

以上、美しい町並みと雛人形鑑賞を同時に楽しめた。雛人形の写真は少なめだが本当はもっと、至る所に飾られていて壮観だった)

真夏に関宿に来たことがあるが、危険な暑さでとてもじゃないが長い時間歩けない。

 

東海道のおひなさま」

それはゆっくり町並みを歩くのに最適なイベントだった。

 

 

 

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Ohinasan in Seki-juku

Ep.249

関宿 Seki-juku was 47th post town of old Tokaido street.

Since Edo period, some buildings have been preserved and utilized(!?), so that we can enjoy seeing them and walking this 1.8km street.

Even though Seki-juku has two famous festivals, “Gion Festival” and “Kaido Festival” in summer season, but also an event, “東海道のおひなさま Ohinasan in Tokaido street” in winter season.

 

Dozens of households display their 雛壇 Hinadan and/or つるし雛 Tsurushibina decorations in nearby window.

Visitors are able to go around and see them for free.

 

www.kankomie.or.jp

www.kankomie.or.jp

www.kankomie.or.jp

https://kameyamarekihaku.jp/sisi/MinzokuHP/jirei/bunrui4/data4-3/index4_3_3.htm

https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000995579.pdf