Ep.131
私はホモサピエンスが60万年前にアフリカで誕生して10万年前に「出アフリカ」(Out of Africa)を果たして世界中に「拡散」(Homo sapiens migration)していきそれぞれの土地に適した身体的特徴(形質)を獲得して民族と民俗を形成していくタイムスケールに関心があるので、この手の日本語で書かれた本はだいたい読んでいる。
日本の少数民族・アイヌについても関心の対象で、関連書物はだいたい読んできた。
ところが5年ほど前からアイヌ民族に関する新著が爆発的に増えた(気がする)。そのため、そのすべては追えなくなってしまった。
理由はいくつか挙げられる。多様性や個性を尊ぶ時代のトレンドや、SDGsに代表される“自然との共生”や“エコ”というキーワードが縄文人やアイヌと結びついたこと(真実はさておき)、あるいは樺太アイヌの活躍を描いた直木書受賞作『熱源』(川越宗一、2019年)も寄与しているだろう。
けれど、人々にアイヌについての関心を最も抱かせたのは、野田サトル作のマンガ『ゴールデンカムイ』(2014〜2022)とそのTVアニメだと思う。
日露戦争に陸軍兵士として従軍した「不死身の男」とアイヌの女の子、という2人を主人公にした冒険活劇だ。
私も興味と教養のためにTVアニメシリーズを観始めたが、アイヌの財宝の在りかを示す手がかりが網走監獄の囚人たちに施された「刺青」だったり、土方歳三が実は生きていた、という突飛すぎる設定にすんなり入っていけなかった。
けれど世の中的に本作品は大ヒットしていた。
マンガやアニメといった表現方法はリスペクトするが、これらでなければ社会の関心を誘起できない、そんな現状は残念だな、とも思った。
ならばロヒンギャもパレスチナ人もアマゾンのインディアンたちもマンガの主人公にしたら人々の関心が高まり状況が改善されるのではないか?
それも冒険劇がいい。少年誌に載るような。
そんな風に皮肉に見ていた私だが、TVアニメ第3期の「樺太編」から加速度的に面白くなってきたのだった。。
日本・北海道という舞台を飛び出して樺太・ロシア・満州へと展開・言及するスケールの大きさ。
それぞれの国の「中央」から遠く離れた土地で暮らす、樺太アイヌ・ウィルタ・ニブフといった少数民族や辺境の人々の登場。
中央集権的な「近代国家」が彼らの暮らしに干渉し、また近隣国を従属させようとする帝国的なこの時代の空気。
そして敵・味方問わず描かれているのは、戊辰戦争、日清・日露戦争、ロシア革命、北方少数民族の独立闘争といった、戦乱で人生を翻弄された者たちだ。
幕末(明治維新)や太平洋戦争を取り上げた作品というのは数多くある。
しかしこれまでほぼ無視されてきた上記2つのはざ間の時代(1907年〜)とこの場所(オホーツク海沿岸地方)を創作の舞台にしたことに対し、敬意を表する。
2015年の3月、私は大学時代の友人が地元で挙げる結婚式に招待されたため、札幌に来ていた。
札幌を訪れたのはそのときが初めてではなかったけれど、良い機会なので札幌近郊の名所(小樽・余市・登別温泉など)をせっせとまわっていた。
中でもハイライトが白老(しらおい)のアイヌ民族博物館(しらおいポロトコタン)だった。私はここに行くのを楽しみにしていた。同じく結婚式に来ていた大学の友人と2人で訪れたのだった。
白老駅では私たちしか降りなかった。博物館までの道を20分くらい歩く。ほんとにこの先にあるのかな? と不安になった。
ようやく入口が見えてくると、向かいの駐車場には、大型の観光バスが停まっていた。
屋内でアイヌの踊りと歌を観劇できるということで行ってみた。観客は30人くらいいただろうか?
ステージで伝統的な踊りが披露される。するとマイクを持ったリーダー(司会者)の方が観客に向かって尋ねた。
「 皆さんの中で、日本人の方は手を挙げてください 」
と言うと、手を挙げたのは私たち2人だけだった。
司会の方:「 こんにちはー 」
私たち:「 こんにちは 」
あれ、他にこんなにいるのにおかしいな? と思っていると、司会の方が
「 皆さんの中で、タイから来られた方は手を挙げてください 」
と言う。
すると、私たちの左にいた20人くらいの人たちが、がばっ、と手を挙げた。
司会の方:「 サワディー カー ! 」
20人くらいの人たち:「 สวัสดีครับ ! 」
「 それでは続いて、中国から来られた方は手を挙げてください 」
と言うと、私たちの左にいた10人くらいの人たちが、ぐあっ、と手を挙げた。
司会の方:「 ニーハオ ! 」
10人くらいの人たち:「 你好 ! 」
そのとき、その空間では、私たち2人こそがマイノリティーだった。
平日ということもあっただろう。けれど最寄駅は閑散とし、「海外団体観光客」がツアーに組み込まれていたから訪れるだけ。
2015年当時、アイヌ民族に対する国内の関心というのはその程度だった。
だから隔世の感がある。もちろん、アイヌへの関心が高まったのは喜ばしいことだ。
アイヌ民族博物館は、正確には今はもうない。
2020年7月、民族共生象徴空間(愛称;ウポポイ)としてリニューアルされたからだ。
松浦武四郎 (1818-1888)
北海道の名付け親とされる人物だ。
ちなみに近年でこの人物が全国的に脚光を浴びたことがある。
2019年にNHKで制作された単発ドラマで、松浦武四郎を嵐の松本潤が、アイヌの女性を深田恭子が演じた。
けれどインパクトに乏しかったことは間違いない。私も当時このドラマを観たが、全くおもしろくなかった。
(深田恭子のルックスがアイヌ女性のそれに似つかず。倭人の言葉を話せるという都合の良さ。当時のアイヌ女性に1mmも寄せにいかないドラマ製作者の姿勢を残念に思った)
松浦武四郎の生涯を学ぶことができる場所がある。彼の出身地、松阪市にある「松浦武四郎記念館」だ。22年4月にリニューアルオープンされた。
実は私はリニューアル前にも訪れたことがある。当時は郷土の偉人を顕彰する場として控えめな? 印象を受けたが、リニューアル後は充実の展示内容に生まれ変わっていた。
計6回、蝦夷(北海道)を探索したこと。地理や風土、人々の生活様式を紹介する数多くの紀行本や地図を出版したこと。
アイヌとの交流。そして彼らが明治政府や本土出身の商人に搾取されていることに心を痛めたこと。
記念館の近くには生家がある。庄屋の四男として産まれた武四郎。
家の前を通るのは伊勢街道
時代はお伊勢参りブームの真っ只中。
あらゆる諸国から伊勢神宮を目指してやって来た人々であふれていたそうだ。
解説員の方からお話を伺えた。
裕福だった武四郎の家では、よく参拝客たちを家に上げて食事をふるまったのだという。
幼かった武四郎は、日本全国からやって来る人たちが話す彼らの「地元」の話に耳を傾け、まだ見ぬ土地への好奇心をどんどん募らせていった。
溢れる思いを抑えきれなくなった16歳のとき、武四郎は家を飛び出し諸国を放浪する旅に出る。未知の「世界」へ第一歩を踏み出したのだ。
『環境は人を育てる』
それを体現する、できすぎたストーリーがここにあった。
おもしろいことに旅先では「伊勢神宮の近くからやって来た」と言うと、大変ありがたがられたらしい。
逆に武四郎の方が彼の地元の話をすることで厚くもてなされたとか。
転機が訪れたのが1838年。長崎にいた武四郎はオランダ人からある話を聞く。
「 ロシアが蝦夷を侵略しようとしているよ。日本、やばいよ 」
驚く武四郎。それは本当なのか? 道ゆく日本人に聞いてまわる。
「 蝦夷がロシアに狙われてるってほんとですか? 」
「 知らないな 」「 聞いたことないな 」
埒が開かないことを悟った武四郎はある決心をする。
「 じゃ、自分が蝦夷地に行って確かめてみよう! 」
となったとのことだった。
この行動力とフットワークの軽さが、彼を歴史上の偉人とした。
こうして武四郎は初めて北の大地を踏みしめることとなる。
記念館の話に戻る。
一般的に松浦武四郎という人物は、北海道やアイヌとの関連についてのみ語られるのが普通だが、さすがは地元のミュージアム。それ以外の、パーソナルな部分についても光が当てられている。
測量のスキルを有し、測量結果を基に地形図を描くその緻密な作業ができたこと
呆れるほど絵が上手だったこと
最後(6回目)の蝦夷地調査をしたのは41歳(1858年)のとき。現代の感覚ではずいぶん若くして「引退」した武四郎だが、驚異的な体力と健脚は晩年まで衰えず。趣味(という言葉すら当時はなかっただろうが)の登山を楽しみ、日本百名山や大台ヶ原(三重県と奈良県の県境にある現代のトレッキングの名所)や富士山(山頂で一泊)へ。
生涯を閉じたのはそのすぐ後。69歳だった。
未知の世界への好奇心を比類なき行動力と情熱に昇華し、蝦夷の一切合切を調査し紹介した圧巻の成果を残す一方で独立自尊の辺境の民を思いやり、まともに整備されていない道を何日間も歩き続けられる体力と緻密な作業を根気強く続けられる精神力を併せ持つ。ついでに絵を描かせてもプロレベル。
規格外のオールラウンダー
このような人が世の中にいたのだ。
想像を遥かに超える超特大の「偉人」なのだった。
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松浦武四郎 Matsuura Takeshiro
Ep.131
松浦武四郎 Matsuura Takeshiro (1818-1888) was a key person who explored 蝦夷 Ezo in 19th century and named this island 北海道 Hokkaido.
It’s well-known to introduce Hokkaido, not only geographical information, but also indigenous people, Ainu.
His deeply understanding and respectful attitude for Ainu people remain present day.
His birthplace in Matsusaka city was in front of Ise-kaido street toward Ise shrine.
So that he was used to be touched with millions of people from all over Japan.
This environment gave him curiosity, imagination and dream to go over his unprecedented world.
His legacy must be based on such occasion.