みんなの笑顔が三重(みえ)てくる Jima-t’s diary

「地域性」に光をあて、「違い」を学び、リスペクトし、楽しむというスタンスで四日市や三重の魅力を伝えていきます

漂流 from 三重

Ep.43

地方ではしばしば「郷土の偉人」を顕彰した資料館や記念館がある。

 

歴史の教科書に登場するほどの人物ではあるものの、ドラマで繰り返し描かれるほどの存在でもない。他県出身者にとってはあまりよく知られていない。(そして残念ながら地元の人にとってもあまり知られていなかったりする..)

 

そんな彼らの驚天動地の人生を、功績を、充実の時代背景と実資料とともに伝えてくれるのが前述のような施設だ。

 

鈴鹿市の白子にある「大黒屋光太夫記念館」もその一つだ。

 

 

「1792年、ロシアの遣日使節ラクスマンが、漂流民の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆうや)らとともに根室に来航し、江戸幕府に通商を求めた」

 

というような記述が、中学校の歴史の教科書に載っていたはずだ。

 

もちろん、このときの幕府はロシアの求めを拒否。ペリーの黒船が来航して渋々「開国」することになったのは60年後のことである。

大国による世界的な植民地政策が日本にも波及し、国を開くことが外国の属国になるリスクを孕むことを徳川幕府は恐れていた、という事実と、後の日米和親条約の締結と「開国」の伏線になった、という歴史の文脈の中で上記が特筆すべき出来事だったとされているのだろう。

 

 

大黒屋光太夫記念館を訪れると、教科書の一行では到底窺い知れない驚愕の事実を学び、想像の翼(妄想の翼?)を広げて壮大な物語に思いを馳せることができる。

 

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大黒屋光太夫は1751年、8代将軍・徳川吉宗が亡くなった年に鈴鹿に生まれた。

貨物を運搬する回船の船頭だった光太夫は1782年、江戸に向かうために白子(伊勢型紙の発祥地。Ep.26参照)から16人の船員とともに出港した後、嵐にあう。

転覆を防ぐために帆柱を切り倒したことで、漂流。

 

漂流期間、実に7ヶ月!

漂着先はベーリング海のアムチトカ島。アラスカとカムチャッカ半島を繋ぐ弧状のアリューシャン列島の島の一つだった!?

 

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紀州藩の米を積荷としており、ある程度大型の船だったことが幸いして、即座に命の危険が差し迫る、という状況にはならなかったのだろう。

それにしても7ヶ月間、光太夫はリーダーとして部下たちにどのように振る舞ったか。船員たちの規律は保たれたか。彼らは何を想い、語らい合ったか。

 

着いた先は地の果てのような場所。

先住民であるアリュート族とロシア人に出逢い、彼らと生活をともにする過程で光太夫はロシア語を習得。この過程で船員17名のうち、12名が亡くなる。

漂着から4年後、本国からロシア人を迎えにきた船が直前で沈没。

悲観に暮れる暇もなく島のロシア人たちと協力して船を造り、アムチトカ島を脱出。カムチャッカ半島へ。

 

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しかしまだ日本には帰れない。

帰国許可をロシアの役人にもらうため、シベリアの中心地・イルクーツクへ向かう。

当然、この時代にシベリア鉄道など無い。犬ぞりを駆使して移動する途上、仲間の一人が凍傷にあい片脚を切断。

 

そして到着先のイルクーツクで出会ったのが、牧師で鉱物学の研究に情熱を傾けていたキリル・ラクスマンだった。

 

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キリル・ラクスマン wikipedia HP より

 

心優しい彼は光太夫たちを自宅に招き事情を聞くとともに支援を惜しまず。

実はキリルの出身はフィンランドのサヴォリンナ市で、彼が5歳のとき、故郷はロシア領になってしまっていた。

故郷を離れて遠い異国で暮らすことになった自身の境遇が、彼らに深く同情を示した背景にあっただろうか。

 

地元政府から首尾良い返事をもらえなかった光太夫らとキリルは、ロシア皇帝・エカテリーナII世に直接嘆願すべくペテルブルグへ向かう。

通常だったら決して交わることのなかった彼らの奇跡の出逢いと、国籍や民族を超えた友情に心が温まる。

 

無事、時の皇帝に謁見できた彼らは、皇太子・貴族・政府高官らに想定以上に厚くもてなされる。驚異の体験を経てロシアの首都までたどり着いたことに敬意を評されてのことだったに違いない。

 

このとき光太夫は皇帝から大きな円形のプレートが付いた首飾りを送られたが、これは当時のロシア国内のどの地域にも行くことができるフリーパスだったらしい。

 

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大黒屋光太夫(左)と磯吉(右) 大黒屋光太夫記念館 HP より

 

ようやく帰国の許可が降りた光太夫たちは、再びイルクーツクへ戻る。

このとき、2名は現地に残ることを選択し、光太夫を含め3名が帰国の途につくことになる。

涙なしには語れない今生の別れだったに違いない。

現地に残った2人は、その後どんな人生を歩んだだろうか。

 

ロシアはこのとき、光太夫らの送還と日本との国交樹立を目的とする遣日使節を編成し、その団長をアダム・ラクスマンに任命した。キリルの次男だ。

「ロシアの父」と慕ったキリル・ラクスマンとの今生の別れもこのときだった。

 

そしてこの後が、教科書で出てくる場面となる。

 

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アダム・ラクスマン wikipedia HP より

 

太夫たちはとっくに亡くなったと思い、お葬式まで済ませていた地元・鈴鹿の人たちは、生存と帰国のニュースに驚愕したに違いない。

 

根室で1名が亡くなり、江戸に到着したのは光太夫と磯吉の2名だけだった。彼らは11代将軍・徳川家斉に謁見。そのまま江戸に留め置かれた。

外国のことを口外しないように幽閉されたとの解釈もあるようだが、間違いなく言えるのは光太夫がリーダーとして、ロシア語話者として、海外事情通として非常に優秀で幕府から重宝されたということだ。

 

1802年(帰国から10年後・漂流から20年後)、故郷への一時帰郷が許された光太夫は、地元の人たちとの再会やお伊勢参りを楽しんだようだ(磯吉もそれに先んじて一時帰郷している)。

平穏な暮らしを取り戻した後も、彼らは亡くなった13名やイルクーツクへ残した2名の仲間、命の恩人・ラクスマン親子のことを想い続けたに違いない。

 

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太夫がロシアで描いた日本地図

 

大黒屋光太夫の人生に想像の翼を広げた人たちは他にもおり、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』(1966年)、緒形拳さん主演の同名映画(1992年)や三谷幸喜氏作の歌舞伎『月光露進路日本 風雲児たち』(2019年)などがあるようだ。

 

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記念館の裏手にある海沿いに立ってあらためて彼らの漂流に思いを巡らした。

 

伊勢の、鈴鹿の、白子の小さな港を出て、向こうに見える陸は知多半島で、伊勢湾を抜けて遠州灘を走ればもうすぐそこに江戸があるのに、漂流して意図せずしてベーリング海の孤島に辿り着いたという事実。

 

最大級の勇気と知恵とエネルギーを持って、壮大な旅路の果てに再びこの地に戻ってきた彼は、まさに郷土の偉人なのだった。

 

 

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Drift from Mie

Ep.43

We can sometimes see the memorial museum of hall of fame.

大黒屋光太夫 Daikokuya-Kohdayu museum in Shiroko, Suzuka city is one of them.

He is a famous man for Japanese history and his name is described in history textbook of junior high school.

 

Daikokuya-Kohdayu was born on 1751, Edo period and a captain of transport ship.

In 1782, he and his 16 crews drifted due to heavy storm on the way to Edo (Tokyo).

 

Their drifting period was 7 months!!

To Amchitka island, one of the Aleutian islands on Bering Sea!!

 

They encountered Russians and Aleut people there.

After for 4 years life at the island with them, they were succeeded in going out due to craft a ship by hand-making.

 

They landed at Kamchatka Peninsula next, nearby Hokkaido, Japan.

Unfortunately, Russia and Japan did not have diplomatic relations at that time.

So that they needed the approval to go back to Japan.

 

But city governor denied it.  They intended to make them stay there.

At last Kohdayu went to Petersburg to see the Russian emperor Yekaterina II Alekseyevna for their petition.

It was succeeded.  The emperor gave hospitality to them and the approval.

 

In 1792, Kohdayu and other one crew could land at Hokkaido finally with Russian ambassador Adam Laxman.

Actually Russia hoped the commerce with Japan.

 

This incident gave Tokugawa government severe shock.  They were scared of Russian invasion.

This was a prelude.  60 years later they finished the isolationist foreign policy and concluded Japan-US treaty.

 

After coming back to Japan, Kohdayu lived in Edo and helped government by his rich information for oversea and Russian language.

 

His courage, wisdom and energy deserve the biggest respect.

He is true proud of this region, Mie.

 

suzuka-bunka.jp