みんなの笑顔が三重(みえ)てくる Jima-t’s diary

「地域性」に光をあて、「違い」を学び、リスペクトし、楽しむというスタンスで四日市や三重の魅力を伝えていきます

真の『三重』とは

Ep.176

廃藩置県の発令から間もない1871年明治4年)11月、現在でいう三重県は2つの県に分かれていたということを知らない県民は多い。

 

安濃津(あのつ)県渡会(わたらい)県である。

 

そう聞くとピンとくる県民は多いかもしれない。

 

渡会は現在の三重県南部、度会町玉城町(たまきちょう)・大紀町(たいきちょう)・南伊勢町が「度会郡」であるように、今でもその名を残す。

 

安濃津についても、県庁所在地・に、その津市の北西側に芸(げいのう)町という地域がある。濃尾平野でもある。

 

上記から推測される通り、安濃津県は現在の津市を含む現在の三重県北部地域、渡会県は県南部地域であった。

 

 

安濃津県・渡会県はしかし短命だった。

わずか2年後の1873年明治6年)12月、両県は合併して新しい県が誕生した。現在の三重県である。

 

合併する上で事前に決めておくことは山ほどあるだろうがその一つは

「県庁をどこに置くか(県庁所在地をどこにするか)」

 

幸いにもこの新しい県はすんなり決まったようだ。

地理的に中央部に位置し、人口・歴史・文化・格、すべてにおいて申し分のない「津」の存在があったからだ。

 

では次に「県名」をどうするか?

ここで「津県」とはならなかったのは承知の通り。

 

安濃津県と渡会県が合併してできた新しい県、その県名は三重県となった。

 

では『三重 みえ』とは何であろうか?

 

三重とは、安濃津県の県庁が置かれた地だった。

 

コトバンクより

 

安濃津県スタート時の1871年11月の段階では、県庁は「安濃郡津」に置かれた。現在の津市である。

ところが4ヶ月後の1872年3月、県庁は「三重郡四日市」に移転されたのだ。交通の都合で便利だったからとされる。

 

「うつべ町かど博物館」より

杖衝坂 四日市市采女

 

三重」の由来はヤマトタケルノミコトに因むものだ。

 

吾が足三重の勾(まがり)なして、いたく疲れたり

 

Ep.163で記したように、四日市市西部の采女(うねめ)町には、その昔ヤマトタケルノミコトが東征から帰郷する際に通ったという杖衝坂(つえつきざか)がある。

 

ここで三重という地名の“由来”については置いておいて、三重の“発祥”については諸説ある。

三重の“発祥”とは「ヤマトタケルノミコトが訪れた場所」と同義である。

 

 

四日市の歴史を学べる「東海道四日市宿資料館」を訪れた。館長さんによると「三重」の発祥は諸説あるとした上で「現在の尾平や川島をはじめとする地域(旧三重郡)」をヤマトタケルノミコトが訪れたのではないかとのことだった。

 

東国遠征からの帰郷途上、まず桑名に辿り着き、そこから大和国(現在の奈良県)へ向かう当時のルートを考えると、上記の地域を通過したのではないかと。(なお三重県との県境に近い岐阜県海津市にも「杖つき坂」があり、こちらが「真の杖衝坂」なのかもしれない)

 

当地は現在も「三重」の地名を残す。三重団地や三重西小学校のあるエリアだ。

ここの住所は「三重県四日市市三重 みえけんよっかいちしみえ」である。

 

なお三重団地と杖衝坂は直線距離で10kmほど離れている。

 

東海道四日市宿資料館」より

古事記の抜粋

日本書紀の抜粋

 

安濃津県の県庁が「三重郡四日市」に置かれたと先に書いたが、ややこしいのはその場所である。

そこは現在の四日市市立中部西小学校である。しかしここの現在の住所は「四日市市北町」で、近鉄四日市駅の近くだ。

三重団地からは5km、杖衝坂からは8kmの所に位置する。

 

当時の三重郡であったことに間違いはないが「三重の発祥」とされるいずれの場所からも随分離れている。

釈然としないが“三重”を県庁所在地名とすることありきで、その“場所”は利便性を優先したのだろうか?

 

四日市市立中部西小学校

現在の四日市市内の地域名

 

話をまとめると1873年12月、安濃津県と渡会県は合併して「三重県」が誕生した。

県庁は津市に置くこととしたが、県名は「安濃津県の県庁が置かれた地・三重郡」の地名を拝借し「三重県」を採用した。

 

「なぜ『三重』にしたのか?」

サムライの時代に別れを告げ、近代国家に生まれ変わらんとする当時の情勢を念頭に、この地の人々が自ら行政を行う地名を、神話の英雄ヤマトタケルノミコトに因むものとしたかった、というところだろうか。

 

ヤマトタケルノミコトが訪れ何気なく名付けたであろう地名・三重は、後世の人々によって多くの意味付けがなされ、彼らの想いが託されていた。

 

 

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“Mie”, the story about its name

Ep.176

What etymology is Mie?

It was referred Yamatotakerunomikoto and has become prefecture’s name since 1873, early Meiji period.

We can imagine hope or wish by people at the time for new era.

 

www.bunka.pref.mie.lg.jp